わたしの、領分をみてきた⑶
2017年6月14日 読書・映画・芸術療育のクリニックに次から次へと当事者とその家族が相談にやってくる。
当事者のこども達(岡村いずみ)がおもちゃでずっと遊んでいる中、家族は心理士の萩野に不安から詰め寄る。「この子は治るんですか?」と。一方萩野は「長い目で見ていきましょう」と応じる。ここに、家族と専門家の立場(領分)の違いが現れてくる。この場面のこどもの無邪気さと深刻な顔で相談を持ちかける母親(家族)の対比は残酷だ。これが毎日のように繰り返されている光景かと思うと謝りたくなった。
また一般的に家族は発達障害や心理学の観点からこどもを見ていない。情報も知識も断片的であいまい。それに対して心理士は専門的に程度こそあれど知っている。この目の前のこどもはどのような成長や発達を見せていくのかという予想と予測の見立てに大きな違いがある。家族にとって発達障害のこどもが生まれたときの不安は、ある種死の布告に近いものがある。前もって学んだり情報を持っていれば、不安は軽減される。
(そして村上は萩野を見ながら....援助家は家族の相談に乗りながらも、出来ることとできないことを感じている。家族ではない心理士だから言える立場と、全責任を負わなくてもいい安堵感。けれど、当事者と変わってあげられないメサイアコンプレックスを感じた)
両親がクリニックにやってくるが、積極的に母親が相談を持ちかけるけれど、父親(室田渓人)は妻に任せっきりで腕を組んだままだ。分からないことは妻に任せるのは、どこにでも見られることだとおもった。しかし、何度目かのクリニックの訪問のときに萩野に激昂する!
「聞いていれば勝手にうちのこどもにgbs;ろちういえあえrw:flmkvgんbjhぃおsp:m_」勢いがあまり咳き込み、顔を歪ませ、こどもの手を強く握ってクリニックを出ていく。残された萩野は落ち込む。
(ここのシーン激昂して咳き込むところ大変だったんだろうなと思った。)
場面が変わり、別の家族(シングルマザー)が療育に関わっている男(柴田淳)連れてきた。
「ここのクリニックのやり方は最新じゃない」「私なら彼(こども)を治せる」と熱弁を振るう。オキシトシンで治せるんだと。
(オキシトシンは絆ホルモンと呼ばれていて、脳の認知活動と社会性に関与していると呼ばれているホルモン。日本では認可されていないので、手に入れるには個人で輸入するしかなく、また効果も一定じゃない。あと恋愛で絆ホルモンと呼ばれるけれど、村上は境界線ホルモンと呼びます。敵と味方を識別するから)
うあぁこの男、ナルシズムの権化でメサイアコンプレックスだぁ!!!俳優(柴田淳)さん魅せる!全盛期のミッチーか!!と思いました。同時に、援助家は強い気持ちを持って対人援助に取り組んでいることを確認しました。その陰には満たされなかった情緒や生育歴や、自ら満たしても満たされたと感じられない(愛を感じる能力が壊れて)ジレンマに苦しんで、自分を助けることを恐れて忘れてしまい、他人を追い立てるように助けなければならない、他人をかわいそうな人に仕立て上げ、更に自分しか"あなた"を助けられるのだと錯覚しメサイアコンプレックスになっていく。その光景を見ているかのようでした。
当事者のこども達(岡村いずみ)がおもちゃでずっと遊んでいる中、家族は心理士の萩野に不安から詰め寄る。「この子は治るんですか?」と。一方萩野は「長い目で見ていきましょう」と応じる。ここに、家族と専門家の立場(領分)の違いが現れてくる。この場面のこどもの無邪気さと深刻な顔で相談を持ちかける母親(家族)の対比は残酷だ。これが毎日のように繰り返されている光景かと思うと謝りたくなった。
また一般的に家族は発達障害や心理学の観点からこどもを見ていない。情報も知識も断片的であいまい。それに対して心理士は専門的に程度こそあれど知っている。この目の前のこどもはどのような成長や発達を見せていくのかという予想と予測の見立てに大きな違いがある。家族にとって発達障害のこどもが生まれたときの不安は、ある種死の布告に近いものがある。前もって学んだり情報を持っていれば、不安は軽減される。
(そして村上は萩野を見ながら....援助家は家族の相談に乗りながらも、出来ることとできないことを感じている。家族ではない心理士だから言える立場と、全責任を負わなくてもいい安堵感。けれど、当事者と変わってあげられないメサイアコンプレックスを感じた)
両親がクリニックにやってくるが、積極的に母親が相談を持ちかけるけれど、父親(室田渓人)は妻に任せっきりで腕を組んだままだ。分からないことは妻に任せるのは、どこにでも見られることだとおもった。しかし、何度目かのクリニックの訪問のときに萩野に激昂する!
「聞いていれば勝手にうちのこどもにgbs;ろちういえあえrw:flmkvgんbjhぃおsp:m_」勢いがあまり咳き込み、顔を歪ませ、こどもの手を強く握ってクリニックを出ていく。残された萩野は落ち込む。
(ここのシーン激昂して咳き込むところ大変だったんだろうなと思った。)
場面が変わり、別の家族(シングルマザー)が療育に関わっている男(柴田淳)連れてきた。
「ここのクリニックのやり方は最新じゃない」「私なら彼(こども)を治せる」と熱弁を振るう。オキシトシンで治せるんだと。
(オキシトシンは絆ホルモンと呼ばれていて、脳の認知活動と社会性に関与していると呼ばれているホルモン。日本では認可されていないので、手に入れるには個人で輸入するしかなく、また効果も一定じゃない。あと恋愛で絆ホルモンと呼ばれるけれど、村上は境界線ホルモンと呼びます。敵と味方を識別するから)
うあぁこの男、ナルシズムの権化でメサイアコンプレックスだぁ!!!俳優(柴田淳)さん魅せる!全盛期のミッチーか!!と思いました。同時に、援助家は強い気持ちを持って対人援助に取り組んでいることを確認しました。その陰には満たされなかった情緒や生育歴や、自ら満たしても満たされたと感じられない(愛を感じる能力が壊れて)ジレンマに苦しんで、自分を助けることを恐れて忘れてしまい、他人を追い立てるように助けなければならない、他人をかわいそうな人に仕立て上げ、更に自分しか"あなた"を助けられるのだと錯覚しメサイアコンプレックスになっていく。その光景を見ているかのようでした。
わたしの、領分をみてきた ⑵
2017年4月16日 読書・映画・芸術https://camp-fire.jp/projects/view/21723
舞台がはじまって、早々に心の理論で殴られたけれど、医療事務の川上が笑いながら「珍しくない?定型なアスぺちゃん」ていうところと、精神科医が障害を苦笑してしまうところ。ああ、これは実習先で見てきた光景だし、普段友達と話すときに障害の特性の不思議さから可笑しくなってしまうことがあるときだとおもった。誰も傷つけるわけで言っているわけではないけれど、日常的にクリニックや病院、就労移行の施設で見られる光景なのは、心理や福祉に関わらない人たちにとってどれだけの衝撃を与えたのだろうと恐ろしくて仕方がない。ただ、そういう時の自分を述べさせてもらえるのならば、そうした嗤った人と共に居たくないし、状況に村上は居たくない。そうした奴に殺意がわく。
「退院した彼女が生きているとは思わなかった」
この言葉は絶対に忘れないです。
でも、悪意があって援助職が障害がもたらす行動などを笑っているわけじゃないことは確かです。何かしらそう向かわせるものがあって、それがなんなのかわからないですけれど。しかし、ADHDの注意欠如と過集中はギャップがあって面白いと思います。普段は注意欠如で集中しなければならないことに取り組めないのに、一度スイッチが入るといくらでも作業に没頭して居られるのは興味深い。
そもそも人の認知は落差によって認識できるとされているので、ギャップがあるほど、差があるほど面白かったり怒りや悲しみや感動を覚えるようにできている。
例えば漫画やアニメでかわいい少女が包丁をもって人を刺し殺したり、マッチョな兄さんがスイーツが大好きで赤ちゃん言葉を使って居たら、それこそホラーで落差がある。
つまり、普段から落差を用いらないと、自分を保てない現実があるのではないかと推論を立てます。
C(高機能自閉症)くんが恋人の女性同僚が上司に傷つけられたときに攻撃行動したのは、納得するところ。自分が仲間だと思っている人が傷つけられることは自分が傷つけられること等しいために、攻撃行動よりは防衛行動をとるのは特性上理解できる。
これは、一般的な次元にすれば観察者羞恥と呼ばれるもので、見ている対象のものが恥ずかしそうにしているのを見て、自分が恥ずかしくなってみるのが耐えられなくなるという観念。ASDなどの特性はこれを皮膚感覚に押し広げて、他者の感覚を勝手に自分のものにしてしまい、仲間が傷つけられることを嫌う。
しかもCくんは知的はグレーゾーンなために騙されていることを理解してないから、いきにくいことも感じていない。その様は本当に社会と自分が噛み合ってないようで悲しい。『アルジャーノンに花束を』冒頭の主人公チャーリィのようだ。
舞台がはじまって、早々に心の理論で殴られたけれど、医療事務の川上が笑いながら「珍しくない?定型なアスぺちゃん」ていうところと、精神科医が障害を苦笑してしまうところ。ああ、これは実習先で見てきた光景だし、普段友達と話すときに障害の特性の不思議さから可笑しくなってしまうことがあるときだとおもった。誰も傷つけるわけで言っているわけではないけれど、日常的にクリニックや病院、就労移行の施設で見られる光景なのは、心理や福祉に関わらない人たちにとってどれだけの衝撃を与えたのだろうと恐ろしくて仕方がない。ただ、そういう時の自分を述べさせてもらえるのならば、そうした嗤った人と共に居たくないし、状況に村上は居たくない。そうした奴に殺意がわく。
「退院した彼女が生きているとは思わなかった」
この言葉は絶対に忘れないです。
でも、悪意があって援助職が障害がもたらす行動などを笑っているわけじゃないことは確かです。何かしらそう向かわせるものがあって、それがなんなのかわからないですけれど。しかし、ADHDの注意欠如と過集中はギャップがあって面白いと思います。普段は注意欠如で集中しなければならないことに取り組めないのに、一度スイッチが入るといくらでも作業に没頭して居られるのは興味深い。
そもそも人の認知は落差によって認識できるとされているので、ギャップがあるほど、差があるほど面白かったり怒りや悲しみや感動を覚えるようにできている。
例えば漫画やアニメでかわいい少女が包丁をもって人を刺し殺したり、マッチョな兄さんがスイーツが大好きで赤ちゃん言葉を使って居たら、それこそホラーで落差がある。
つまり、普段から落差を用いらないと、自分を保てない現実があるのではないかと推論を立てます。
C(高機能自閉症)くんが恋人の女性同僚が上司に傷つけられたときに攻撃行動したのは、納得するところ。自分が仲間だと思っている人が傷つけられることは自分が傷つけられること等しいために、攻撃行動よりは防衛行動をとるのは特性上理解できる。
これは、一般的な次元にすれば観察者羞恥と呼ばれるもので、見ている対象のものが恥ずかしそうにしているのを見て、自分が恥ずかしくなってみるのが耐えられなくなるという観念。ASDなどの特性はこれを皮膚感覚に押し広げて、他者の感覚を勝手に自分のものにしてしまい、仲間が傷つけられることを嫌う。
しかもCくんは知的はグレーゾーンなために騙されていることを理解してないから、いきにくいことも感じていない。その様は本当に社会と自分が噛み合ってないようで悲しい。『アルジャーノンに花束を』冒頭の主人公チャーリィのようだ。
わたしの、領分をみてきた ⑴
2017年4月16日 読書・映画・芸術https://camp-fire.jp/projects/view/21723
うわっ、遅刻した。
ここ最近、地元のつけ麺が美味しい駅からみなとみらい駅や立川駅までとか、講演会や結婚式で遠くに向かうことが多い。今回の下北沢も立川までとは言わないけれど、秋葉原や神保町あたりで満足している自分にとって新宿以降は遠くて仕方がない。
過労に次ぐ過労で中程度のうつを呈していて、左側頭部の締め付けの頭痛がある。こういうときって自意識が立ち上らないから感想は書けないものだけれど、初めて観劇した劇ではそうもいかなかった。
下北沢駅から劇場まで走って着いた。
着いてみたら、外は冷たい雨にもかかわらず満席で、一応の予約を取っていなかったら座れなかったかもしれない。しかも席は追加席で、どうやら通常なら通路となっているところに無理しておいたようだった。しかし、誰よりも間近で岡村いずみさんの演技を観れたのは幸運だと思った。
私が座った位置からでは舞台全体が見えない。それは劇場中央に柱が立っていて、役者の動きも出入りも一部しか見えなかった。すぐさま、これは"舞台そのもの利用している"ことがわかった。見えない役者はナレーションのように聞こえて、抽象概念のはるか(岡村いずみ)と舞台が隔絶されていることにすぐに気がついた。舞台の始まり方も、はるかから入ったのも意図があったはず。
観客席を可能な限り見渡してみれば、知らないけれど俳優やモデルに福祉に携わっていそうな方々が散見された。舞台が進む中、多分、福祉家のかたと何かを考えるポーズが似通っていたので、きっと福祉家なんだろうと、そして観客のそれぞれはそれぞれの価値観を持って劇を見にきて、劇の感想を未消化のまま持ち帰って苦悶するに違いないと、わたしの中で断言した。
私は狭い空間にいるとき周囲を見渡す癖がある。劇を見ながら周囲を見渡してしまうのは、心理福祉に携わろうとするからなのか、わたし自身の特性なのか決められないけれど、確かにそうやって日々を過ごしている。集中してないのは誰か(想像上)にとってけっこう迷惑極まりないのかもしれない。
幕が上がり、一応の主人公である心理士の萩野が持っている本は『心の理論』
自分から他者への認識や他者の考え方を推し量れるかというもので、カタカナで言ってみるとセオリーオブマインドとちょっと、かっこカワイイ感じがして、個人的に好きです。というのはおいておこう!
さて、萩野が心の理論を持っていることで前もって、人々は分かり合えないけどわかりあうことをしないといけないことを示していると解釈した。小道具の心の理論でどれだけの人が見えないバットで頭を殴られたのだろうと、勝手に殴られた気になっている自分は思った。
うわっ、遅刻した。
ここ最近、地元のつけ麺が美味しい駅からみなとみらい駅や立川駅までとか、講演会や結婚式で遠くに向かうことが多い。今回の下北沢も立川までとは言わないけれど、秋葉原や神保町あたりで満足している自分にとって新宿以降は遠くて仕方がない。
過労に次ぐ過労で中程度のうつを呈していて、左側頭部の締め付けの頭痛がある。こういうときって自意識が立ち上らないから感想は書けないものだけれど、初めて観劇した劇ではそうもいかなかった。
下北沢駅から劇場まで走って着いた。
着いてみたら、外は冷たい雨にもかかわらず満席で、一応の予約を取っていなかったら座れなかったかもしれない。しかも席は追加席で、どうやら通常なら通路となっているところに無理しておいたようだった。しかし、誰よりも間近で岡村いずみさんの演技を観れたのは幸運だと思った。
私が座った位置からでは舞台全体が見えない。それは劇場中央に柱が立っていて、役者の動きも出入りも一部しか見えなかった。すぐさま、これは"舞台そのもの利用している"ことがわかった。見えない役者はナレーションのように聞こえて、抽象概念のはるか(岡村いずみ)と舞台が隔絶されていることにすぐに気がついた。舞台の始まり方も、はるかから入ったのも意図があったはず。
観客席を可能な限り見渡してみれば、知らないけれど俳優やモデルに福祉に携わっていそうな方々が散見された。舞台が進む中、多分、福祉家のかたと何かを考えるポーズが似通っていたので、きっと福祉家なんだろうと、そして観客のそれぞれはそれぞれの価値観を持って劇を見にきて、劇の感想を未消化のまま持ち帰って苦悶するに違いないと、わたしの中で断言した。
私は狭い空間にいるとき周囲を見渡す癖がある。劇を見ながら周囲を見渡してしまうのは、心理福祉に携わろうとするからなのか、わたし自身の特性なのか決められないけれど、確かにそうやって日々を過ごしている。集中してないのは誰か(想像上)にとってけっこう迷惑極まりないのかもしれない。
幕が上がり、一応の主人公である心理士の萩野が持っている本は『心の理論』
自分から他者への認識や他者の考え方を推し量れるかというもので、カタカナで言ってみるとセオリーオブマインドとちょっと、かっこカワイイ感じがして、個人的に好きです。というのはおいておこう!
さて、萩野が心の理論を持っていることで前もって、人々は分かり合えないけどわかりあうことをしないといけないことを示していると解釈した。小道具の心の理論でどれだけの人が見えないバットで頭を殴られたのだろうと、勝手に殴られた気になっている自分は思った。
下北沢まで「わたしの、領分」を観劇してきた。
下北沢に行くのも初めてだし、大人になって演劇を観に行くのも初めてだった。
この劇の存在を知ったのはSNSで流れてきて興味を持った。理由は自分が自分のことを知らなくて、それでは相手のこともわからないのではないかと思ったからだ。他者を大事にしようとしつつも、どこか自分本意だったのではないかという反省も込めて。
https://watashi-no-ryobun.themedia.jp
劇を見終えて、楽しかった。見えないバットで頭を殴られて、言葉にできない感情を持ち、知覚できない怒りをまとったくらいだ。演劇の最中に何度も、苦笑した。それぞれの役者が演じている登場人物の主張や悲しみと怒り、きっとそれに至るであろう背景を想像して。
発達障害の子どもとその養育者の葛藤、それに対して無力な新人カウンセラーの専門的な態度に憤り激昂する両親。こどもの存在は無視をされ、子どもの特性や性格に無理解な親たち。責められ傷つく新人カウンセラーもまた、流産を経験して悩み苦しんでいた、彼女を支える夫を責めながら、夫婦は共に苦しんでいた。
一つのテーマだけでも一本の話を作れそうなのに、多重にも幾重にも日常的に起こっていることを一つの小さな劇場で表現して見せたのは、脚本家が天才で揃った役者がいたからだと思う。劇場の特性を活かして、主観席と客観席を作り、見ている位置によって観客の感想が違って、さらに観客自身の価値観も違うから、誰一人として同じ劇を見ているわけではない。「認識の齟齬と軋轢」人の認識の仕方と他者と自分を分け隔てる境界線とラベルづけをしないといけない現代日本人。受け入れるとは一体なんだろうか?
理解することと理解されること、受け入れられない理由は一体どんなことなのか。
最後、カウンセラーは自分を責める親に叫ぶ。「断定することがどんなに気持ちが良いことか」と。
これは、親がこどもの障害や生き方を決められたら親は安堵し、カウンセラーは決めつけて親やこどもに指示していれば本当に楽なのと、自分から見た他人がきっとこうであることを勝手にできたら、なんて楽なのだろうということを指している。
しかも、専門職の人たちは専門性を持っていない人たちに一向に理解されない。まるで「使い捨てのラップ」の様相だ。
ちょっと書ききれない。また観たい作品でした。
下北沢に行くのも初めてだし、大人になって演劇を観に行くのも初めてだった。
この劇の存在を知ったのはSNSで流れてきて興味を持った。理由は自分が自分のことを知らなくて、それでは相手のこともわからないのではないかと思ったからだ。他者を大事にしようとしつつも、どこか自分本意だったのではないかという反省も込めて。
https://watashi-no-ryobun.themedia.jp
劇を見終えて、楽しかった。見えないバットで頭を殴られて、言葉にできない感情を持ち、知覚できない怒りをまとったくらいだ。演劇の最中に何度も、苦笑した。それぞれの役者が演じている登場人物の主張や悲しみと怒り、きっとそれに至るであろう背景を想像して。
発達障害の子どもとその養育者の葛藤、それに対して無力な新人カウンセラーの専門的な態度に憤り激昂する両親。こどもの存在は無視をされ、子どもの特性や性格に無理解な親たち。責められ傷つく新人カウンセラーもまた、流産を経験して悩み苦しんでいた、彼女を支える夫を責めながら、夫婦は共に苦しんでいた。
一つのテーマだけでも一本の話を作れそうなのに、多重にも幾重にも日常的に起こっていることを一つの小さな劇場で表現して見せたのは、脚本家が天才で揃った役者がいたからだと思う。劇場の特性を活かして、主観席と客観席を作り、見ている位置によって観客の感想が違って、さらに観客自身の価値観も違うから、誰一人として同じ劇を見ているわけではない。「認識の齟齬と軋轢」人の認識の仕方と他者と自分を分け隔てる境界線とラベルづけをしないといけない現代日本人。受け入れるとは一体なんだろうか?
理解することと理解されること、受け入れられない理由は一体どんなことなのか。
最後、カウンセラーは自分を責める親に叫ぶ。「断定することがどんなに気持ちが良いことか」と。
これは、親がこどもの障害や生き方を決められたら親は安堵し、カウンセラーは決めつけて親やこどもに指示していれば本当に楽なのと、自分から見た他人がきっとこうであることを勝手にできたら、なんて楽なのだろうということを指している。
しかも、専門職の人たちは専門性を持っていない人たちに一向に理解されない。まるで「使い捨てのラップ」の様相だ。
ちょっと書ききれない。また観たい作品でした。
『損する結婚 儲かる離婚』
2017年3月20日 読書・映画・芸術久しぶりに人に勧められて本を読んだ。
新書に至っては初めてかもしれない。
この本の内容は日本の法律上、裕福な人たちの離婚による婚姻費用と慰謝料の実態が書かれてある。本の内容を誇張するために有名人やお金持ちが選ばれている。また結婚と離婚に関しての法の問題や自由恋愛について提起している。お金と結婚について淡々と書かれてあるので、私は書き手に対して冷ややかな印象を受ける。
ざっくりとどこを読めばいいかと述べると、あらすじと1.2.6章とあとがきで足りる。
3.4.5.章は補足になっているので、拾っていけばいい。
言いたいことは「自由な恋愛とより良い人生を歩んで行くために、結婚と結婚にまつわる法律や文化観よく考えましょう」だと思う。結婚を皮肉りたい人には面白い本であるし、一妻一夫の婚姻システムに疑問点がある人にもオススメである。
著者は一夫多妻を勧めているけれど、ポリアモリのシステムの方がわかりやすい。結婚は2人で資源と労働力を獲得して補いながら、資産を運用してくもので、それならポリアモリでメリットとしてよく述べられるように、複数人で結婚-事実婚をすれば、資産運用は容易になる。これはこどもを"授かる"にしても"作らない"にしても言える。
これからの結婚の実情は時代や文化感が進んでいるようで、昔の文化感を取り入れていくと思った。
この本を読んで副読本として
『殺人出産』
『ポリアモリー複数愛の中を生きる』
『親と子の愛情と戦略』
『離婚の心理学』
あと愛するってこういうこと『卵の尾』
より良い人間関係のためにバイスティックhttp://www.ee-life.net/hatena/biestek
~さて結婚に何を求めるのかと普遍的な問いがあるけれど、村上は安堵感を求めると思います。日々の労働と独り身の寂しさからであると、よくある回答を置いておきますね。人は紛れもなく動物なので、動物の第一欲求は安全の保証です。
生理的に命や気持ちの安全が保障されて、社会的な欲求が満たされてから人は恋愛をして結婚するのに、立ち戻って安堵を求めるのってなんだろうとは思うのですけれど、きっと安堵の中に村上は自己実現を見出すんじゃないかと、ぼやっと思いました~
新書に至っては初めてかもしれない。
この本の内容は日本の法律上、裕福な人たちの離婚による婚姻費用と慰謝料の実態が書かれてある。本の内容を誇張するために有名人やお金持ちが選ばれている。また結婚と離婚に関しての法の問題や自由恋愛について提起している。お金と結婚について淡々と書かれてあるので、私は書き手に対して冷ややかな印象を受ける。
ざっくりとどこを読めばいいかと述べると、あらすじと1.2.6章とあとがきで足りる。
3.4.5.章は補足になっているので、拾っていけばいい。
言いたいことは「自由な恋愛とより良い人生を歩んで行くために、結婚と結婚にまつわる法律や文化観よく考えましょう」だと思う。結婚を皮肉りたい人には面白い本であるし、一妻一夫の婚姻システムに疑問点がある人にもオススメである。
著者は一夫多妻を勧めているけれど、ポリアモリのシステムの方がわかりやすい。結婚は2人で資源と労働力を獲得して補いながら、資産を運用してくもので、それならポリアモリでメリットとしてよく述べられるように、複数人で結婚-事実婚をすれば、資産運用は容易になる。これはこどもを"授かる"にしても"作らない"にしても言える。
これからの結婚の実情は時代や文化感が進んでいるようで、昔の文化感を取り入れていくと思った。
この本を読んで副読本として
『殺人出産』
『ポリアモリー複数愛の中を生きる』
『親と子の愛情と戦略』
『離婚の心理学』
あと愛するってこういうこと『卵の尾』
より良い人間関係のためにバイスティックhttp://www.ee-life.net/hatena/biestek
~さて結婚に何を求めるのかと普遍的な問いがあるけれど、村上は安堵感を求めると思います。日々の労働と独り身の寂しさからであると、よくある回答を置いておきますね。人は紛れもなく動物なので、動物の第一欲求は安全の保証です。
生理的に命や気持ちの安全が保障されて、社会的な欲求が満たされてから人は恋愛をして結婚するのに、立ち戻って安堵を求めるのってなんだろうとは思うのですけれど、きっと安堵の中に村上は自己実現を見出すんじゃないかと、ぼやっと思いました~
ちぐわつ(1月)
山嶺さんれいの雪ゆきなほ深ふかけれども、其その白妙しろたへに紅くれなゐの日ひや、美うつくしきかな玉たまの春はる。
松籟しようらい時ときとして波なみに吟ぎんずるのみ、撞ついて驚おどろかす鐘かねもなし。
萬歳まんざいの鼓つゞみ遙はるかに、鞠唄まりうたは近ちかく梅うめヶ香かと相あひ聞きこえ、突羽根つくばねの袂たもとは松まつに友染いうぜんを飜ひるがへす。
をかし、此このあたりに住すまふなる橙だい/\の長者ちやうじや、吉例きちれいよろ昆布こんぶの狩衣かりぎぬに、小殿原ことのばらの太刀たちを佩反はきそらし、七草なゝくさの里さとに若菜わかな摘つむとて、讓葉ゆづりはに乘のつたるが、郎等らうどう勝栗かちぐりを呼よんで曰いはく、あれに袖形そでかたの浦うらの渚なぎさに、紫むらさきの女性によしやうは誰たそ。……蜆しゞみ御前ごぜんにて候さふらふ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4148_6476.html
山嶺さんれいの雪ゆきなほ深ふかけれども、其その白妙しろたへに紅くれなゐの日ひや、美うつくしきかな玉たまの春はる。
松籟しようらい時ときとして波なみに吟ぎんずるのみ、撞ついて驚おどろかす鐘かねもなし。
萬歳まんざいの鼓つゞみ遙はるかに、鞠唄まりうたは近ちかく梅うめヶ香かと相あひ聞きこえ、突羽根つくばねの袂たもとは松まつに友染いうぜんを飜ひるがへす。
をかし、此このあたりに住すまふなる橙だい/\の長者ちやうじや、吉例きちれいよろ昆布こんぶの狩衣かりぎぬに、小殿原ことのばらの太刀たちを佩反はきそらし、七草なゝくさの里さとに若菜わかな摘つむとて、讓葉ゆづりはに乘のつたるが、郎等らうどう勝栗かちぐりを呼よんで曰いはく、あれに袖形そでかたの浦うらの渚なぎさに、紫むらさきの女性によしやうは誰たそ。……蜆しゞみ御前ごぜんにて候さふらふ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4148_6476.html
時計仕掛けのオレンジ
2016年10月22日 読書・映画・芸術(この記事は考えるページなので、楽しさよりも考えることを主眼にしています)
(楽しい記事はちょこちょこ書いていこうと思っています、下手くそですけど)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&ved=0ahUKEwjqrKKUqfDPAhVCHpQKHR7VClkQFgg4MAM&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2599%2582%25E8%25A8%2588%25E3%2581%2598%25E3%2581%258B%25E3%2581%2591%25E3%2581%25AE%25E3%2582%25AA%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B8-DVD-%25E3%2583%259E%25E3%2583%25AB%25E3%2582%25B3%25E3%2583%25A0%25E3%2583%25BB%25E3%2583%259E%25E3%2582%25AF%25E3%2583%2589%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25A7%25E3%2583%25AB%2Fdp%2FB003EVW6B8&usg=AFQjCNFCQqXCOLITM9vVMi-ym56TXQLCtQ&sig2=Lix9rCMzfmvk09WXOnz4DA
接骨院のイーストさんからの紹介で鑑賞してみることにしました。
名作と呼ばれる、一つのアイコンとして成立した映画になります。
おおまかに物語は近未来、全てが統制された世の中で、主人公と仲間の少年たちが暴力の限りを働き、主人公だけが社会的制裁を受けるお話です
中身は芸術と暴力と性暴力。そして極限化された社会的侵害性のパレードです。
主人公は暴力を働く時にベートーベンの第九をかけます。
忍び込んだ先で性暴力を働き、第九をかけます。ここがミソです。
主人公は他の事件で殺人をし、仲間からはめられて警察に捕まります。
聖書を引用できる模範的な囚人となりますが、見破られてしまいます。
しかし、ある治療を受けることによって、終身刑を終了させることができると知り受けます。その時に、暴力と性暴力の映画を見せられるのですが、そこには第九がかかっていて、治療には苦痛が伴い第九を聞くと吐き気や希死念慮が芽生える条件付けされました。
主人公は出所して家族の元に帰るのですが、両親の元には息子同然の下宿人がいて、追い出されてしまいます。家を出ることを決めたのは主人公なのですけれど。
家を出てから災難が続きます。
仲間たちとリンチをした浮浪者と会い、浮浪者たちからリンチを受けることになり、仲裁にはいった警察官たちは、過去の仲間たち。就職する年齢に達したから、暴力はやめて警察官になった。そういいつつ、主人公をリンチします。命だけは助かり、朦朧としながらある家にたどり着くと、その家は過去、性暴力を振るった家でした。
妻は性暴力によって自殺をし、夫は車椅子生活。
夫は主人公に復讐をし、さらに主人公を使って治療は非人道的であると政府批判の駒にします。
主人公は夫の策略によって自殺をして未遂に終わります。
だいたい話してしまいましたが、ぜひご鑑賞ください。
感想は侵害性を描ききっていると思います。
個人的な暴力は人を殺すことになり、政府が主人公におこなった社会的治療は主人公を、自由意志をもたない、刺激に反応する動物に成り立たせ、社会不安を引き起こす。
誰が見ても圧倒されると思いますけど、心理や福祉の人間が見ると一層、己の中の暴力性に吐き気を覚えることでしょう。それがお前なんだって。
さて、作品としては、紛れもなく芸術作品だと思います。作品とは関係ないのですが比喩として精神科医が、治療にある暴力を浄化に転換させるのに、必要悪として他人をこき下ろすかのように、芸術に含まれている性暴力と暴力を正当化し、観るもの触れるものを殴りつける。そうした作品です。
なので、およそ正義とは綺麗だと思い込んでいる暴力にすぎない。
誠実さとは綺麗に嘘をつけることと同じですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【侵害性】
これは生ける人間が人間の中で生きているかぎり持続する状態。
人は一人では生きていけないけど、資源がおおくあれば生きられてしまう。
こと、親や恋人から愛(資源)を奪い合うのは、生きていくのに必要で満たそうとしても満たされないから。そうして侵害性が継続してしまう。侵害性には連帯と相互共助が付随している。じゃあ侵害性はどこまで暴力的でどのようにしたらなくすことができるのだろうか?よい共助とはどうしたらよいのか?
つまるところ、侵害性を感じないこと。強くなること。ディスコミュニケーションを減らし、ニーズを満たすことなんだと思う。これを読んでいるあなたの思考や海馬に...
「私は侵害性を発揮させている!」という悪意や敵意をなくすこと。(そんなつもりはない)
でも、悪意や敵意ってどこから生まれるんだ?命や自己保存なんじゃないか?
-----------
ひとつ酷い思い出がある。
払拭したいけど払拭されることは二度とないと思ってる。
過去に一人だけ女の人と付きあったことがある。
彼女はいろんなことやものを抱えていて、苦しんでいました。
僕も憎しみを抱えて苦しかったから、そうした共通点で付き合いが始まりました。
酷い思い出は破局の電話の時に「あなたが私のストレッサーだっ!!」と言われたことです。
心底落ち込みました。今でも思い出すたびに落ち込みます。数ヶ月経って電話をした時に発言に対して謝罪があったんですけど、払拭されませんでした。自分が相手のためになると思った行動がそんなつもりはないのに侵害的で暴力だった。モラルハラスメントに他ならないと。自分でラベル付けしてしまったんです。
人間不信にはならなかったけど、自分の行動や発言力を大きく削ぐ形になり、持続性を持っています。辛いです。人が一人幸せになっていく過程で自己主張しなければならない。「人を傷つけて、自分が傷つくことにYesという」これを乗り越えないかぎり、幸せにはなれない。つくづく、主張しなければならない時期に主張することを行えなかったと落胆します。それを選ばされたとしても選んだ自分に対しても。
あと付随して、「理解しなければならない病」になっています。
このモラルハラスメントを乗り越えらなければならない強迫的な症状は、一般生活において、知らなくても良いことの権利を放棄し、他者への共感性を磨き続けて自己を傷つける症候群。たぶん、いや絶対に臨床家の人は必ず陥る症候群だと思います。
症候群といっても、日常生活で他害するわけじゃないので安心してください。
(じゃあ知らない
皮肉なのは人が楽しいと思うことは自己主張や侵害性、暴力的な何か。
人は他人に共感性を求めるけれど、己の感性は磨かない。「自分の感性くらい自分で磨けよ大馬鹿ものよ」この詩は本当に大っ嫌いだ。
(楽しい記事はちょこちょこ書いていこうと思っています、下手くそですけど)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&ved=0ahUKEwjqrKKUqfDPAhVCHpQKHR7VClkQFgg4MAM&url=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2599%2582%25E8%25A8%2588%25E3%2581%2598%25E3%2581%258B%25E3%2581%2591%25E3%2581%25AE%25E3%2582%25AA%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B8-DVD-%25E3%2583%259E%25E3%2583%25AB%25E3%2582%25B3%25E3%2583%25A0%25E3%2583%25BB%25E3%2583%259E%25E3%2582%25AF%25E3%2583%2589%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25A7%25E3%2583%25AB%2Fdp%2FB003EVW6B8&usg=AFQjCNFCQqXCOLITM9vVMi-ym56TXQLCtQ&sig2=Lix9rCMzfmvk09WXOnz4DA
接骨院のイーストさんからの紹介で鑑賞してみることにしました。
名作と呼ばれる、一つのアイコンとして成立した映画になります。
おおまかに物語は近未来、全てが統制された世の中で、主人公と仲間の少年たちが暴力の限りを働き、主人公だけが社会的制裁を受けるお話です
中身は芸術と暴力と性暴力。そして極限化された社会的侵害性のパレードです。
主人公は暴力を働く時にベートーベンの第九をかけます。
忍び込んだ先で性暴力を働き、第九をかけます。ここがミソです。
主人公は他の事件で殺人をし、仲間からはめられて警察に捕まります。
聖書を引用できる模範的な囚人となりますが、見破られてしまいます。
しかし、ある治療を受けることによって、終身刑を終了させることができると知り受けます。その時に、暴力と性暴力の映画を見せられるのですが、そこには第九がかかっていて、治療には苦痛が伴い第九を聞くと吐き気や希死念慮が芽生える条件付けされました。
主人公は出所して家族の元に帰るのですが、両親の元には息子同然の下宿人がいて、追い出されてしまいます。家を出ることを決めたのは主人公なのですけれど。
家を出てから災難が続きます。
仲間たちとリンチをした浮浪者と会い、浮浪者たちからリンチを受けることになり、仲裁にはいった警察官たちは、過去の仲間たち。就職する年齢に達したから、暴力はやめて警察官になった。そういいつつ、主人公をリンチします。命だけは助かり、朦朧としながらある家にたどり着くと、その家は過去、性暴力を振るった家でした。
妻は性暴力によって自殺をし、夫は車椅子生活。
夫は主人公に復讐をし、さらに主人公を使って治療は非人道的であると政府批判の駒にします。
主人公は夫の策略によって自殺をして未遂に終わります。
だいたい話してしまいましたが、ぜひご鑑賞ください。
感想は侵害性を描ききっていると思います。
個人的な暴力は人を殺すことになり、政府が主人公におこなった社会的治療は主人公を、自由意志をもたない、刺激に反応する動物に成り立たせ、社会不安を引き起こす。
誰が見ても圧倒されると思いますけど、心理や福祉の人間が見ると一層、己の中の暴力性に吐き気を覚えることでしょう。それがお前なんだって。
さて、作品としては、紛れもなく芸術作品だと思います。作品とは関係ないのですが比喩として精神科医が、治療にある暴力を浄化に転換させるのに、必要悪として他人をこき下ろすかのように、芸術に含まれている性暴力と暴力を正当化し、観るもの触れるものを殴りつける。そうした作品です。
なので、およそ正義とは綺麗だと思い込んでいる暴力にすぎない。
誠実さとは綺麗に嘘をつけることと同じですね。
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【侵害性】
これは生ける人間が人間の中で生きているかぎり持続する状態。
人は一人では生きていけないけど、資源がおおくあれば生きられてしまう。
こと、親や恋人から愛(資源)を奪い合うのは、生きていくのに必要で満たそうとしても満たされないから。そうして侵害性が継続してしまう。侵害性には連帯と相互共助が付随している。じゃあ侵害性はどこまで暴力的でどのようにしたらなくすことができるのだろうか?よい共助とはどうしたらよいのか?
つまるところ、侵害性を感じないこと。強くなること。ディスコミュニケーションを減らし、ニーズを満たすことなんだと思う。これを読んでいるあなたの思考や海馬に...
「私は侵害性を発揮させている!」という悪意や敵意をなくすこと。(そんなつもりはない)
でも、悪意や敵意ってどこから生まれるんだ?命や自己保存なんじゃないか?
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ひとつ酷い思い出がある。
払拭したいけど払拭されることは二度とないと思ってる。
過去に一人だけ女の人と付きあったことがある。
彼女はいろんなことやものを抱えていて、苦しんでいました。
僕も憎しみを抱えて苦しかったから、そうした共通点で付き合いが始まりました。
酷い思い出は破局の電話の時に「あなたが私のストレッサーだっ!!」と言われたことです。
心底落ち込みました。今でも思い出すたびに落ち込みます。数ヶ月経って電話をした時に発言に対して謝罪があったんですけど、払拭されませんでした。自分が相手のためになると思った行動がそんなつもりはないのに侵害的で暴力だった。モラルハラスメントに他ならないと。自分でラベル付けしてしまったんです。
人間不信にはならなかったけど、自分の行動や発言力を大きく削ぐ形になり、持続性を持っています。辛いです。人が一人幸せになっていく過程で自己主張しなければならない。「人を傷つけて、自分が傷つくことにYesという」これを乗り越えないかぎり、幸せにはなれない。つくづく、主張しなければならない時期に主張することを行えなかったと落胆します。それを選ばされたとしても選んだ自分に対しても。
あと付随して、「理解しなければならない病」になっています。
このモラルハラスメントを乗り越えらなければならない強迫的な症状は、一般生活において、知らなくても良いことの権利を放棄し、他者への共感性を磨き続けて自己を傷つける症候群。たぶん、いや絶対に臨床家の人は必ず陥る症候群だと思います。
症候群といっても、日常生活で他害するわけじゃないので安心してください。
(じゃあ知らない
皮肉なのは人が楽しいと思うことは自己主張や侵害性、暴力的な何か。
人は他人に共感性を求めるけれど、己の感性は磨かない。「自分の感性くらい自分で磨けよ大馬鹿ものよ」この詩は本当に大っ嫌いだ。
チョコレートドーナッツ
2016年10月9日 読書・映画・芸術http://bitters.co.jp/choco/
たまにDVDを借りて映画やアニメを見ています。
特に名作と呼ばれているものを選んでみたり、ドイツ映画はドイツに興味があるので去年はちょこちょこ借りて見ていました。その時に「チョコレートドーナッツ」の予告が流れたので気になっていました。
2012年の作品で、どうやら映画レビューは絶賛の嵐のようです。
そうした前評判は一切知らないで、結末だけ知っていて鑑賞をしました。
幕の始まり方は
ゲイバーで生計を立てるルディは、隣の部屋の騒音に悩まされて、オーディオを隣の部屋に止めに行くことから物語は始まります。マルコというダウン症の少年が薬物依存で捕まった実母を探しに、施設から出て家に戻るところをルディが保護をします。(児相にも家庭局にも連絡せず)パートナーとなるポールもだんだんと協力するようになり
感想は優しい愛が一貫して描かれていました。
ルディが愛らしいくて人間味があって、内側から愛が溢れている人間というのはルディのことだと思います。ルディはいろんな傷つきを覚えて耐え抜いてきたであろうと想像します。経験から傷ついているマルコを保護しなければと人間愛から行動したのだと思います。ポールも検事の立場から、ルディのマルコへの愛を支えて、三人の家族になる。
あとの話はぜひご鑑賞ください。
------------
最近の村上はおかしい。
ポリアモリーの講演会に行ってきたあたりから、いやこれが正常なのか。
たまにDVDを借りて映画やアニメを見ています。
特に名作と呼ばれているものを選んでみたり、ドイツ映画はドイツに興味があるので去年はちょこちょこ借りて見ていました。その時に「チョコレートドーナッツ」の予告が流れたので気になっていました。
2012年の作品で、どうやら映画レビューは絶賛の嵐のようです。
そうした前評判は一切知らないで、結末だけ知っていて鑑賞をしました。
幕の始まり方は
ゲイバーで生計を立てるルディは、隣の部屋の騒音に悩まされて、オーディオを隣の部屋に止めに行くことから物語は始まります。マルコというダウン症の少年が薬物依存で捕まった実母を探しに、施設から出て家に戻るところをルディが保護をします。(児相にも家庭局にも連絡せず)パートナーとなるポールもだんだんと協力するようになり
感想は優しい愛が一貫して描かれていました。
ルディが愛らしいくて人間味があって、内側から愛が溢れている人間というのはルディのことだと思います。ルディはいろんな傷つきを覚えて耐え抜いてきたであろうと想像します。経験から傷ついているマルコを保護しなければと人間愛から行動したのだと思います。ポールも検事の立場から、ルディのマルコへの愛を支えて、三人の家族になる。
あとの話はぜひご鑑賞ください。
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最近の村上はおかしい。
ポリアモリーの講演会に行ってきたあたりから、いやこれが正常なのか。
人間とは何か V.E.Frnkl
2016年9月8日 読書・映画・芸術愛の意味。この章を読むために図書館で本を借りました。
フランクルかっこいい。読むたびに惚れ直して愛する。
惚れるとは身体的・心理的な価値や「衣服」備わっていることに触発されたことを指していて、
愛する人間とは身体的・心理的な層よりも深く、そのものの"存在"より"本質"をその人間が本来「ある」ところのものを愛する。
下位 上位
身体的<心理的<愛している
愛していますという言葉は、その人が持っているとか持っていないとか些細なことを吹っ飛ばして、生まれてきてくれてありがとうと祝福する言葉なんだと思う。祝福には神も下人の立場もさらにして、感謝する態度がある。
フランクルは9ヶ月の新婚生活の末に妻ティリーを絶滅工場で亡くして、本人は当時妻に会えることと母親に生きて帰ることを、ここにいない彼女たちに誓った。そこに彼女たちの身体的な必要性はなかった。瞼を閉じれば、彼女たちに会えたから。ここにいないのにもかかわらず、語り合えた。本書をめくると、「ティリーに捧ぐ」とある。目に触れてから、愛の意味を読み始めて気がついた。フランクルは愛に生きた男なのだと。
最愛の家族をすべて絶滅工場で失い、再婚をして家族を死の間際まで笑わせ続けてたフランクルは、ティリーを決して忘れなかったのだろう。恋は盲目にするが、愛は目を一層強くする。フランクルは決して会うことができないティリーに、あい続けて愛し続けた。
フランクルかっこいい。
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恋愛のテクニックとかコミュニケーション能力とか、心理・精神医学を学習しているけれど正直わからない。ただ目の前に立ち現れる人物の本質は、真剣に聴こうとしている。もちろん聴いても分からない時だってさえある。けれど、その人物から立ち現れる本質(サルトル)を逃したりなんかしない。注意深く関心を持っていなければ、違いに気づくことなんかできないから。
「愛するとは関心を持って間接的に安心(愛)を表現する(与える)こと」
これを可能にするにはopen the eyesさせる行動が必要っと。
フランクルかっこいい。読むたびに惚れ直して愛する。
惚れるとは身体的・心理的な価値や「衣服」備わっていることに触発されたことを指していて、
愛する人間とは身体的・心理的な層よりも深く、そのものの"存在"より"本質"をその人間が本来「ある」ところのものを愛する。
下位 上位
身体的<心理的<愛している
愛していますという言葉は、その人が持っているとか持っていないとか些細なことを吹っ飛ばして、生まれてきてくれてありがとうと祝福する言葉なんだと思う。祝福には神も下人の立場もさらにして、感謝する態度がある。
フランクルは9ヶ月の新婚生活の末に妻ティリーを絶滅工場で亡くして、本人は当時妻に会えることと母親に生きて帰ることを、ここにいない彼女たちに誓った。そこに彼女たちの身体的な必要性はなかった。瞼を閉じれば、彼女たちに会えたから。ここにいないのにもかかわらず、語り合えた。本書をめくると、「ティリーに捧ぐ」とある。目に触れてから、愛の意味を読み始めて気がついた。フランクルは愛に生きた男なのだと。
最愛の家族をすべて絶滅工場で失い、再婚をして家族を死の間際まで笑わせ続けてたフランクルは、ティリーを決して忘れなかったのだろう。恋は盲目にするが、愛は目を一層強くする。フランクルは決して会うことができないティリーに、あい続けて愛し続けた。
フランクルかっこいい。
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恋愛のテクニックとかコミュニケーション能力とか、心理・精神医学を学習しているけれど正直わからない。ただ目の前に立ち現れる人物の本質は、真剣に聴こうとしている。もちろん聴いても分からない時だってさえある。けれど、その人物から立ち現れる本質(サルトル)を逃したりなんかしない。注意深く関心を持っていなければ、違いに気づくことなんかできないから。
「愛するとは関心を持って間接的に安心(愛)を表現する(与える)こと」
これを可能にするにはopen the eyesさせる行動が必要っと。
新海誠さんの小説の中で最高傑作だと思う。
こんなに綺麗な文章ってあるのかなって思う。流麗で綺麗な文章として有名らしい泉鏡花とか読んだことないけど、そうしたものを読んだ気分です。
とても幸せな心持ちです。
緊張を緩和したくて語りたくなるように、安堵をすると幸せを語りたくなるのですね。
こんなに綺麗な文章ってあるのかなって思う。流麗で綺麗な文章として有名らしい泉鏡花とか読んだことないけど、そうしたものを読んだ気分です。
とても幸せな心持ちです。
緊張を緩和したくて語りたくなるように、安堵をすると幸せを語りたくなるのですね。