2017年3月18日 散文
子どもが1人生まれて次に2人3人と欲しくなるのは、資源がある証拠。
子どもを育てるのにたくさん人に頼るのはいいことだと思う。
頼られて嬉しくない人はいないし、頼まれた人が嬉しそうでなかったら頼まなくてもいい。
両親やきょうだい、それに友達が生きていれば、可能な限り頼ってみると、自分が生きやすくなるし、家庭もよくなる。それがどんな形態の家庭であれ、助け合うこと。
人間関係の摩擦は大変かもしれないけれど、摩擦がないのも生きていてなんだか寂しいと思う。多様性のある人間像が求められている時代に、核家族で価値観の摩擦がいくつかしかないのはもったいない。自分の両親と義両親に、実のきょうだいと義理のきょうだい、いとこ達と顔を合わせて話すのは、子どもだけじゃなく全ての構成員に良い刺激をもたらす。
忙しい人を愛して支え抜かんとするには、人手が必要だ。
子どもを育てるのにたくさん人に頼るのはいいことだと思う。
頼られて嬉しくない人はいないし、頼まれた人が嬉しそうでなかったら頼まなくてもいい。
両親やきょうだい、それに友達が生きていれば、可能な限り頼ってみると、自分が生きやすくなるし、家庭もよくなる。それがどんな形態の家庭であれ、助け合うこと。
人間関係の摩擦は大変かもしれないけれど、摩擦がないのも生きていてなんだか寂しいと思う。多様性のある人間像が求められている時代に、核家族で価値観の摩擦がいくつかしかないのはもったいない。自分の両親と義両親に、実のきょうだいと義理のきょうだい、いとこ達と顔を合わせて話すのは、子どもだけじゃなく全ての構成員に良い刺激をもたらす。
忙しい人を愛して支え抜かんとするには、人手が必要だ。
覚書
援助するものには、治療するものと緩和するものがあると思う。
治療は問題に直接働きかけて解決をはかること
緩和は問題が発展しないように働きかけて改善を図ること
援助するものには、治療するものと緩和するものがあると思う。
治療は問題に直接働きかけて解決をはかること
緩和は問題が発展しないように働きかけて改善を図ること
【体調不良】
たぶん冬季うつですねえ。
晴れた天気の時は幸せたっぷりで死んでもいい!って思い、曇りで光が差さないと生きてる意味ってなにさ?とか考え出してる。
昔から労働と休息のメリハリをつけられない人なので、ツライよりめんどくさい。ただ、メリハリ&張り切ることを習慣化しないとこれから闘っていけないので張り切ろう。
昨日今日、休んでも思考は止まらないから休んだことにならない。
これからも実習と気持ちが休まらない日々が続く。
けど、生きる意味について勉強する…じゃなくて学習していくことは幸せになることだと結論に至った。臨床心理士になりたくて労働をし続けて、なんど諦めそうになったかわからない。朝起きて泣いていた日は数知れない。なにで泣いていたのか分からないけれど、たぶんきっとそう。諦めたくなかったから。
諦めるのは簡単なようで簡単じゃない。諦めたら廃人になると思ったから、諦められなかった。勉学を諦めたくなかったのは諦めるのが怖くて、諦めきれなかった。だから、諦めないで勉学を続ける。勉学を好きだから始めたんじゃない、好きになりたくて始めたんだ。
人に一目惚れをしてその人に近づきたくて芸術を貪るように、勉学が好きということに近づけるように働き続けてきた。ああ大切に持ち続けていたおもちゃ箱の中に、あったじゃないか!学び走り続けられるミニカー!
たぶん冬季うつですねえ。
晴れた天気の時は幸せたっぷりで死んでもいい!って思い、曇りで光が差さないと生きてる意味ってなにさ?とか考え出してる。
昔から労働と休息のメリハリをつけられない人なので、ツライよりめんどくさい。ただ、メリハリ&張り切ることを習慣化しないとこれから闘っていけないので張り切ろう。
昨日今日、休んでも思考は止まらないから休んだことにならない。
これからも実習と気持ちが休まらない日々が続く。
けど、生きる意味について勉強する…じゃなくて学習していくことは幸せになることだと結論に至った。臨床心理士になりたくて労働をし続けて、なんど諦めそうになったかわからない。朝起きて泣いていた日は数知れない。なにで泣いていたのか分からないけれど、たぶんきっとそう。諦めたくなかったから。
諦めるのは簡単なようで簡単じゃない。諦めたら廃人になると思ったから、諦められなかった。勉学を諦めたくなかったのは諦めるのが怖くて、諦めきれなかった。だから、諦めないで勉学を続ける。勉学を好きだから始めたんじゃない、好きになりたくて始めたんだ。
人に一目惚れをしてその人に近づきたくて芸術を貪るように、勉学が好きということに近づけるように働き続けてきた。ああ大切に持ち続けていたおもちゃ箱の中に、あったじゃないか!学び走り続けられるミニカー!
続 かわいい(アダルト含み)
2016年11月12日 散文「かわいいをめぐる攻防」
http://sprachen.diarynote.jp/201609132006455799/
かわいいという言葉の使い方には、歴史と文化が色づいている。
最近OOハラスメントを無くす啓蒙がなされている。そこで年齢のハラスメントについて「かわいい」を関係させて論じたい。(根拠が薄いのは情報・知識不足、でも書く)
「かわいい」の語源は上記のブログのリンク先を参照されたし。
最近ラジオを聴いていて、パーソナリティとレポーターとの間でハラスメントが生じたと思うところがあった。レポーターが好きで熱心な球団をレポートしている時に、パーソナリティは「若くてかわいい」から点数を上げますと発言したところ、レポーターの声は引きつったように「若いからですかぁ」と感想をこぼした。
レポーターは20代前半ながらも、頑張って仕事をしている様が毎回聴き取れるようだった。しかし、パーソナリティはレポーターが仕事に対して大事にしてきたであろう努力や誠意を「かわいい」という一言で粉砕してしまったと、小生には思える。
かわいいの用法は立場や力が強いものから弱いものへと流れる性質があった。
しかし現代の用法には「キュート」「プリティ」や「素敵」という意味もあり、受け手が持っている「かわいい」に対する認知(シェマ・スキーマ)が異なると、ディスコミニケーションになりやすい。
その例として、ある男性が一回り年上の女性と夜を過ごしている時の話を聞きました。、行為中に男性は女性に「かわいい」と言われて、とても困惑をしたらしく、これはどう受け止めたらよいのか頭から離れなくなったそうです。女性は好意として「かわいい」といったといったそうです。しかし、彼曰く「頑張ってるのに...」
単純な好意として受け取ればいいのか、技術的に幼いのか。また、かわいいと言われるとは思ってもみなかったそうです。これは従来の男性から女性への用法でしょう。
(この話を聞いた時に、若いのに少し古い考え方をしてるんだなと思いました。そして彼の男性性がしばらく折れたのは言うまでもないでしょう)
「かわいい」の用法には特徴があります。
それはラベル付け(評価)です。かわいいとラベル付けしたものを共感してくれそうな人と共感をする。かわいい対象を指示して同じ感覚を味わう。共感ができなければ受容に移り、コミュニケーションの円滑化に移行する。
ここで侵害性の「かわいい」が立ち現れてきます。すごい・あつい・いたい・などの評価をもつ言葉は「かわいい」よりも侵害性が低いと考えます。感性の違いがあると思いますが、基準が明確にある一方、「かわいい」用法と意味の違い、話してと受け手の認知(これはどこにでもあるけれど)の錯誤があり、解釈が非常に難しい。現代日本人は曖昧さを嫌うのに、曖昧さを活用するのは自分に納得する情報を与えたいから。(みんな大好きシロウト理論)
また言葉は人の認知をかえて文化になります。
過去の日本人がかわいそうである様をかわいいといい、かわいいの意味構造を「かわいそう」から庇護が必要な対象へ切り替えて、また現在の「可愛い」に変化させたのは驚愕するところでしょう。現在の「可愛い」からかわいい対象や物を作る文化に発展したのではないか、そして日本人の鍵概念である「甘え」と織られるように「かわいい」の用法と意味が変化して、侵害性を持つようになったのではないかと仮説を立てます。
つまり「かわいい」という言葉があるから年齢ハラスメントが生じる。
(かわいいって言葉がなかったら、世界はどんな風になっていたのだろう)
日本は文化的にはもともとの「かわいい」の用法どおり、男性・立場が上から女性へ・立場が低い方へ文化観があったため、グローバル化が進む昨今では、欧米の文化や規範をそのまま輸入してしまい、男女平等や公正明大などの輸入した文化の統合が甘くなされていない。ある種無批判な状態で生き難くさが生じていると主張します。
------------
【脱線話】
デート代どちらが払う?っていうテーマだけで何時間も議論になるあたり、文化観や態度を考え尽くしていない未熟な証拠だと思います。男女平等の上なのに、支払いが片方に多く増えて、愛されていると知りたいから支払いを求める。「甘え」
上の文章を読んで男女平等なのに男性の支払いが増えて女性は知りたいから、と村上は書いていないですよ?読めたところにミソがありますね!
http://sprachen.diarynote.jp/201609132006455799/
かわいいという言葉の使い方には、歴史と文化が色づいている。
最近OOハラスメントを無くす啓蒙がなされている。そこで年齢のハラスメントについて「かわいい」を関係させて論じたい。(根拠が薄いのは情報・知識不足、でも書く)
「かわいい」の語源は上記のブログのリンク先を参照されたし。
最近ラジオを聴いていて、パーソナリティとレポーターとの間でハラスメントが生じたと思うところがあった。レポーターが好きで熱心な球団をレポートしている時に、パーソナリティは「若くてかわいい」から点数を上げますと発言したところ、レポーターの声は引きつったように「若いからですかぁ」と感想をこぼした。
レポーターは20代前半ながらも、頑張って仕事をしている様が毎回聴き取れるようだった。しかし、パーソナリティはレポーターが仕事に対して大事にしてきたであろう努力や誠意を「かわいい」という一言で粉砕してしまったと、小生には思える。
かわいいの用法は立場や力が強いものから弱いものへと流れる性質があった。
しかし現代の用法には「キュート」「プリティ」や「素敵」という意味もあり、受け手が持っている「かわいい」に対する認知(シェマ・スキーマ)が異なると、ディスコミニケーションになりやすい。
その例として、ある男性が一回り年上の女性と夜を過ごしている時の話を聞きました。、行為中に男性は女性に「かわいい」と言われて、とても困惑をしたらしく、これはどう受け止めたらよいのか頭から離れなくなったそうです。女性は好意として「かわいい」といったといったそうです。しかし、彼曰く「頑張ってるのに...」
単純な好意として受け取ればいいのか、技術的に幼いのか。また、かわいいと言われるとは思ってもみなかったそうです。これは従来の男性から女性への用法でしょう。
(この話を聞いた時に、若いのに少し古い考え方をしてるんだなと思いました。そして彼の男性性がしばらく折れたのは言うまでもないでしょう)
「かわいい」の用法には特徴があります。
それはラベル付け(評価)です。かわいいとラベル付けしたものを共感してくれそうな人と共感をする。かわいい対象を指示して同じ感覚を味わう。共感ができなければ受容に移り、コミュニケーションの円滑化に移行する。
ここで侵害性の「かわいい」が立ち現れてきます。すごい・あつい・いたい・などの評価をもつ言葉は「かわいい」よりも侵害性が低いと考えます。感性の違いがあると思いますが、基準が明確にある一方、「かわいい」用法と意味の違い、話してと受け手の認知(これはどこにでもあるけれど)の錯誤があり、解釈が非常に難しい。現代日本人は曖昧さを嫌うのに、曖昧さを活用するのは自分に納得する情報を与えたいから。(みんな大好きシロウト理論)
また言葉は人の認知をかえて文化になります。
過去の日本人がかわいそうである様をかわいいといい、かわいいの意味構造を「かわいそう」から庇護が必要な対象へ切り替えて、また現在の「可愛い」に変化させたのは驚愕するところでしょう。現在の「可愛い」からかわいい対象や物を作る文化に発展したのではないか、そして日本人の鍵概念である「甘え」と織られるように「かわいい」の用法と意味が変化して、侵害性を持つようになったのではないかと仮説を立てます。
つまり「かわいい」という言葉があるから年齢ハラスメントが生じる。
(かわいいって言葉がなかったら、世界はどんな風になっていたのだろう)
日本は文化的にはもともとの「かわいい」の用法どおり、男性・立場が上から女性へ・立場が低い方へ文化観があったため、グローバル化が進む昨今では、欧米の文化や規範をそのまま輸入してしまい、男女平等や公正明大などの輸入した文化の統合が甘くなされていない。ある種無批判な状態で生き難くさが生じていると主張します。
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【脱線話】
デート代どちらが払う?っていうテーマだけで何時間も議論になるあたり、文化観や態度を考え尽くしていない未熟な証拠だと思います。男女平等の上なのに、支払いが片方に多く増えて、愛されていると知りたいから支払いを求める。「甘え」
上の文章を読んで男女平等なのに男性の支払いが増えて女性は知りたいから、と村上は書いていないですよ?読めたところにミソがありますね!
好きなことと嫌いなこと
2016年9月23日 散文 コメント (2)好きなこと没頭できることや、わかること
読書カードゲーム自転車、部屋の掃除、整理整頓、赤い色の服や装飾品、
食べること、体を動かすこと、カレー作り、煮込み料理全般、カッコイイものかわいいもの、美しいものや綺麗な人物、言葉の響き、美しい言葉、素敵だと思える声、柔らかい雰囲気、愛おしいと思える気持ち、安心感、映画館と図書館、甘い香水、イメージ通りなこと、古語・大和言葉、接吻、目合ひ、笑顔、愛情が通い合うこと
渋い言葉と人の人生の生き様や決断、V.E.フランクル、神様のカルテと主人公の栗原一止、千代夫人が「星が綺麗ですね」といった古狐先生の返し
ドイツ語の響き お酒全般とBARや洒落たカフェ、コペルニクス的問いかけ
あずまんが大王 かもめチャンス NARUTO 頑張っている人、理解ある人、
神保町、秋葉原、新宿御苑、フナール、総武快速線、山手線、野田アーバンライン
不安がない睡眠 奥華子 榊原ゆい 坂本真綾 尾崎豊 ジュディマリ・YUKI
嫌いなことは怒られること
暑い寒い痛い切り傷と打撲、臭い緊張、寂しい、わからないことがわからないのに分かるだろと言われること、わからないこと、疲労と寝不足とそこからネガティヴ思考になって自尊心の低下、悪意や敵意を感じること、不用意に人を傷つける人、話し合いをしない人、理解しようと努めない人、侮辱、暴力
労働後の課題処理、人に訊ねられない自分、負わないでいい責任を負ってしまうこと、頑張れない自分、疲れを言い訳にしてしまうこと、勤労学生は労働した後に学習しないとただの人という強い規範意識、頭痛
常にストローク不足の状態、それらを再生産している自分、自分だけの責任じゃないのに、状況を変えられるのは自分しかいない事実。
心理学を勘違いしている人
好きな季節は秋と冬、冷んやりとした空気が生きている実感をくれる。
12月は誕生日だから好き。
嫌いな季節は夏。ずっと働き続けてきて楽しいイベントに行けなかったから。
江戸川の花火大会は土手でみたい
読書カードゲーム自転車、部屋の掃除、整理整頓、赤い色の服や装飾品、
食べること、体を動かすこと、カレー作り、煮込み料理全般、カッコイイものかわいいもの、美しいものや綺麗な人物、言葉の響き、美しい言葉、素敵だと思える声、柔らかい雰囲気、愛おしいと思える気持ち、安心感、映画館と図書館、甘い香水、イメージ通りなこと、古語・大和言葉、接吻、目合ひ、笑顔、愛情が通い合うこと
渋い言葉と人の人生の生き様や決断、V.E.フランクル、神様のカルテと主人公の栗原一止、千代夫人が「星が綺麗ですね」といった古狐先生の返し
ドイツ語の響き お酒全般とBARや洒落たカフェ、コペルニクス的問いかけ
あずまんが大王 かもめチャンス NARUTO 頑張っている人、理解ある人、
神保町、秋葉原、新宿御苑、フナール、総武快速線、山手線、野田アーバンライン
不安がない睡眠 奥華子 榊原ゆい 坂本真綾 尾崎豊 ジュディマリ・YUKI
嫌いなことは怒られること
暑い寒い痛い切り傷と打撲、臭い緊張、寂しい、わからないことがわからないのに分かるだろと言われること、わからないこと、疲労と寝不足とそこからネガティヴ思考になって自尊心の低下、悪意や敵意を感じること、不用意に人を傷つける人、話し合いをしない人、理解しようと努めない人、侮辱、暴力
労働後の課題処理、人に訊ねられない自分、負わないでいい責任を負ってしまうこと、頑張れない自分、疲れを言い訳にしてしまうこと、勤労学生は労働した後に学習しないとただの人という強い規範意識、頭痛
常にストローク不足の状態、それらを再生産している自分、自分だけの責任じゃないのに、状況を変えられるのは自分しかいない事実。
心理学を勘違いしている人
好きな季節は秋と冬、冷んやりとした空気が生きている実感をくれる。
12月は誕生日だから好き。
嫌いな季節は夏。ずっと働き続けてきて楽しいイベントに行けなかったから。
江戸川の花火大会は土手でみたい
見知らぬ誰かに救われる
2016年9月18日 散文先週、いつものように駅に着くのが遅れて電車に乗った。
月1あるスクーリングに向かうためだ。身体はなんとなく重い。
席は空いていない。けど、少ししたら座れたから助かった。
そこへ60代だろうか、かしましな女性3人組がやってきて、世間話をしている。
どうやら眼の前に立っている人は苦労人らしい。
彼女の脇を固める友達が家事や姑さんとの介護などのことを褒めちぎっている。
けど、褒められても嬉しくないように返事をしている。たぶん、本当は嬉しいけれど彼女は嬉しいことを嬉しいと表現しにくい生き方をしてきたのだろうと悟った。
なぜならイトコ2人と4人きょうだい、併せて5番目として育ってきたからと語っていた。ずっと、ずっと、彼女はこのことを人生で何度も語ってきたのだろう。
それは若輩者ながらわかる。心理を学ぶものがわかるとは、なかなか言いにくいのだけれど。
直感した。僕と彼女は同じなのだと。
ランドセルを背負うころには兄や姉は自分の世界があって、自分との摩擦がない。
兄や姉をあこがれるばかりで、単純にその年齢に育てば憧れる容姿や能力だって手に入るはず。けれど、そんなことは少女にはわからない。
家族がたくさんいるのに、じぶんだけ宙ぶらりん...のような気がする。
「しっかりしなきゃ」と幼い心は決心をしただろう。
家事や料理や服や色彩、礼儀作法のあらゆる身につけるべきと思えることの一切。
座りながら耳の神経は、いつの日かの少女に向いていた。それは真剣にうなづきながら。どなたかわからないけれど、あなたの人生によって、僕は救われた。
同じように悩み、悩み抜いた女性がいたことに。
ああ、僕の悩みは"まだ"学習曲線上にあるのだと、
教えてくれたことに本当にありがとうございました。
それと下車の時に道を開けたくださった時に
「まぁ素敵な笑顔」とお誉めいただいたことも嬉しく思います。
この苦しみが正しいことを、このままちゃんと生きることを確認できました。
月1あるスクーリングに向かうためだ。身体はなんとなく重い。
席は空いていない。けど、少ししたら座れたから助かった。
そこへ60代だろうか、かしましな女性3人組がやってきて、世間話をしている。
どうやら眼の前に立っている人は苦労人らしい。
彼女の脇を固める友達が家事や姑さんとの介護などのことを褒めちぎっている。
けど、褒められても嬉しくないように返事をしている。たぶん、本当は嬉しいけれど彼女は嬉しいことを嬉しいと表現しにくい生き方をしてきたのだろうと悟った。
なぜならイトコ2人と4人きょうだい、併せて5番目として育ってきたからと語っていた。ずっと、ずっと、彼女はこのことを人生で何度も語ってきたのだろう。
それは若輩者ながらわかる。心理を学ぶものがわかるとは、なかなか言いにくいのだけれど。
直感した。僕と彼女は同じなのだと。
ランドセルを背負うころには兄や姉は自分の世界があって、自分との摩擦がない。
兄や姉をあこがれるばかりで、単純にその年齢に育てば憧れる容姿や能力だって手に入るはず。けれど、そんなことは少女にはわからない。
家族がたくさんいるのに、じぶんだけ宙ぶらりん...のような気がする。
「しっかりしなきゃ」と幼い心は決心をしただろう。
家事や料理や服や色彩、礼儀作法のあらゆる身につけるべきと思えることの一切。
座りながら耳の神経は、いつの日かの少女に向いていた。それは真剣にうなづきながら。どなたかわからないけれど、あなたの人生によって、僕は救われた。
同じように悩み、悩み抜いた女性がいたことに。
ああ、僕の悩みは"まだ"学習曲線上にあるのだと、
教えてくれたことに本当にありがとうございました。
それと下車の時に道を開けたくださった時に
「まぁ素敵な笑顔」とお誉めいただいたことも嬉しく思います。
この苦しみが正しいことを、このままちゃんと生きることを確認できました。
「かわいい」をめぐる攻防
2016年9月13日 散文「かわいい」という単語は日本語の歴史と幅の広さを表していると思う。
「かわいい」はアニメや漫画などを通して海外へ自然と輸出されていまや世界語となっている。
参照http://knowledge-plus.com/english/614/
かわいいは、元は「不憫だ」「気の毒だ」といった意味を表す語で、その意味を受け継いでいる言葉には「かわいそう」がある。
「かほはゆし(顔映ゆし)」も「顔を向けていられないほどである」といった意味で、そこから「気の毒で見ていられない」「不憫だ」といった意味が派生した。
「かわいい(かはゆし)」が「気の毒だ」から正反対の「愛らしい」の意味に転じたのは中世後半からで、その理由については明らかになっていないが、小さい物や弱いものに対して手を差し伸べたくなる感情と、気の毒で見ていられないという感情は近いものがあり、「気の毒だから助けてあげたい」→「愛らしい」というように意味が転じたものと思われる。
参照http://gogen-allguide.com/ka/kawaii.html
つまり簡単にかわいいという言葉は使えない。特に語源を知っている人に対して。
なお、力関係(立場)において上から下の者へ、男性から女性へ使われることが元々の使われ方だった。けれど、最近の若者にはその制約は存在しない。
かわいいの使い方は人によってまちまちではあるけれど、コミュニケーションの潤滑によく多用される。初対面同士の女性の場合、かわいいという言葉は武器であり生命線である。
「そのポーチかわいいね」(話を始めませんか?)
「髪かわいいね、どこで切ってるの?」(会話の幅を広げたい)
「これ、かわいいと思わない?」(同意してほしい)
「うん、それかわいい」(そうだね or そうかもね)
一方男性同士の会話は長続きしない。
かわいいという言葉は、本当に可愛らしいと思ったときに発せられる。コミュニケーションの潤滑にかわいいは使われない。使っている人がいるとすれば、使い慣れをしている人と言える。つまりそういうことだ。なお、長続きするのはだいたい共通の趣味か敵と下ネタである。共通の目的達成が男性にとって生存戦略として必要不可欠。(男は女の人に目的達成の戦略を求めてしまうからミスコミュニケートが生じる)
少し横道にそれてみよう。
かわいいの意味の幅は一般的な女性の方が広いうえに、言葉の意味自体も広い。対比して男性は狭くて深い。一つの単語に価値付けを差し込んでいる。ここを知らないと女性は地雷を踏むことになる。言語能力は脳の脳梁に関係していることが示唆されている。女性の方が面積が大きいのと言語野が左右に散っている。一方男性は言語野は片側にしかない。(最近の論文だと人によって言語野の場所が違うことが報告されているようですけど割愛します)
比喩表現として女性はマシンガン(弾は無限)、男性はリボルバー(弾は6発)
女性同士のいい間違えは頻繁に起こる。けど次の発言で修正すればいい了解があるのに対して、男性にその了解はない。男性は発言するときに、原稿をチェックするように発話するため、いい間違えは大変なことになる。(他人には見えないVRで読んでいるイメージです
あともう一つ。「かわいい」を生み出した日本の文化に直接的に褒める文化がない。
包んだり、隠したり、間接的な表現を好む文化感(日本語)がある。したがって、褒めるのと褒められるのになれていない。褒めてもらいたいと思っている人が実は褒め慣れていなくて、うまく褒める人を欲している現実がある。
例えば男性が女性を褒める場合、男性は何かしらの目的が存在するため、男性は単純に「かわいい」とおもっていってみても、受け手の女性は下心か本来の「かわいい」と受け取る構造になる。ゆえに、簡単に褒められる状況と褒める人が育ちにくい。
いいと思った事や、みたまんま褒められないとなると、ひねりを加えないといけないことになる。これは非常に難しい。何に努力をしているのか何に心を寄せているのか、見えない。褒められた人が褒められた事に価値を置いていないと、意味がない。
ただ、ジョハリの窓のように、周囲から褒められた人は、その人が周囲から指摘されている美点に気づいていないとき、両者とも理解しあえない。残業は本来しなくていいはずなのに、当然の事として捉えている人にとって「残業大変だったでしょう」は心が揺れない。
しかし、褒めるやり方としてちょっと強引なのが、「私メッセージ」をつかった褒め方だと思う。誰が何を言おうと「私はあなたのここが素敵だと思う」相手が欲しい承認(利他的な褒める)ではなくて、自分本位な褒め方で褒めることを続ける。だんだんと褒められた人は、そのことに関して関心を持つようになって、好意的であるならば、窓があることに気がつく。ただ、褒めることは興味を持ち続けていないと難しい行為(好意)だと思う。
親友よ、ありがとう。ごめんなさい。
まとめていくと、かわいいという言葉には、目には見えない攻防があると考えられる。
かわいいを分析していくと褒める文化がなくて、褒める人と褒められる人が育ちにくいことがわかる。言葉の使用に基づく、意味の幅と価値付けにより、「かわいい」は解釈しにくく、コンテキスト(文脈)に比重がかかる言葉と言える。
つまり修行しないとかわいいは使えない!!!
あとがっきー
勝ち負けじゃないけど、どうやってリボルバーでマシンガンが飛び交うなかに飛び込めるのか知りたい。下手に一つの単語に反応して価値を置きに行くと蜂の巣にされるのがオチ!この前、「あっ(察し」になったから、あちゃーと思いましたね滝汗
どうやら女性の発話には一単語3つ程の意味があるらしい。意味センサーも複数ある。
男性は一単語に複数の価値を入れるらしい。意味センサーは一つ。
女性の発話は3本の矢が放たれる。男性はセンサーが一つしかないから2本ほどキャッチできない。体に刺さる。
なので、意味の幅を質問できる男性との会話はテンポ良くならない。質問しない人はわからないから質問できない場合がある。男性の発話は箱の中に全部入れてあるから、開ければわかる。開けて蛇が飛び出してきても、驚かずにもいであげましょう。(怖ろしい
男性の会話の仕方を知っている女性は、意味の幅を抑えて話をしていることがわかる。
所感として30歳を過ぎたあたりからと思う。
女性の話をいくらでも聴ける人は、意味を捉えられないところを知っていて、価値付けする考え方を抑える。言葉を撫でるかのように、感情の起伏に敏感に反応して、まるで読書をするかのよう。
ーー
どこか女性は傷つきによって、男性は理解することによって強くなっていくような気がする。
「かわいい」はアニメや漫画などを通して海外へ自然と輸出されていまや世界語となっている。
参照http://knowledge-plus.com/english/614/
かわいいは、元は「不憫だ」「気の毒だ」といった意味を表す語で、その意味を受け継いでいる言葉には「かわいそう」がある。
「かほはゆし(顔映ゆし)」も「顔を向けていられないほどである」といった意味で、そこから「気の毒で見ていられない」「不憫だ」といった意味が派生した。
「かわいい(かはゆし)」が「気の毒だ」から正反対の「愛らしい」の意味に転じたのは中世後半からで、その理由については明らかになっていないが、小さい物や弱いものに対して手を差し伸べたくなる感情と、気の毒で見ていられないという感情は近いものがあり、「気の毒だから助けてあげたい」→「愛らしい」というように意味が転じたものと思われる。
参照http://gogen-allguide.com/ka/kawaii.html
つまり簡単にかわいいという言葉は使えない。特に語源を知っている人に対して。
なお、力関係(立場)において上から下の者へ、男性から女性へ使われることが元々の使われ方だった。けれど、最近の若者にはその制約は存在しない。
かわいいの使い方は人によってまちまちではあるけれど、コミュニケーションの潤滑によく多用される。初対面同士の女性の場合、かわいいという言葉は武器であり生命線である。
「そのポーチかわいいね」(話を始めませんか?)
「髪かわいいね、どこで切ってるの?」(会話の幅を広げたい)
「これ、かわいいと思わない?」(同意してほしい)
「うん、それかわいい」(そうだね or そうかもね)
一方男性同士の会話は長続きしない。
かわいいという言葉は、本当に可愛らしいと思ったときに発せられる。コミュニケーションの潤滑にかわいいは使われない。使っている人がいるとすれば、使い慣れをしている人と言える。つまりそういうことだ。なお、長続きするのはだいたい共通の趣味か敵と下ネタである。共通の目的達成が男性にとって生存戦略として必要不可欠。(男は女の人に目的達成の戦略を求めてしまうからミスコミュニケートが生じる)
少し横道にそれてみよう。
かわいいの意味の幅は一般的な女性の方が広いうえに、言葉の意味自体も広い。対比して男性は狭くて深い。一つの単語に価値付けを差し込んでいる。ここを知らないと女性は地雷を踏むことになる。言語能力は脳の脳梁に関係していることが示唆されている。女性の方が面積が大きいのと言語野が左右に散っている。一方男性は言語野は片側にしかない。(最近の論文だと人によって言語野の場所が違うことが報告されているようですけど割愛します)
比喩表現として女性はマシンガン(弾は無限)、男性はリボルバー(弾は6発)
女性同士のいい間違えは頻繁に起こる。けど次の発言で修正すればいい了解があるのに対して、男性にその了解はない。男性は発言するときに、原稿をチェックするように発話するため、いい間違えは大変なことになる。(他人には見えないVRで読んでいるイメージです
あともう一つ。「かわいい」を生み出した日本の文化に直接的に褒める文化がない。
包んだり、隠したり、間接的な表現を好む文化感(日本語)がある。したがって、褒めるのと褒められるのになれていない。褒めてもらいたいと思っている人が実は褒め慣れていなくて、うまく褒める人を欲している現実がある。
例えば男性が女性を褒める場合、男性は何かしらの目的が存在するため、男性は単純に「かわいい」とおもっていってみても、受け手の女性は下心か本来の「かわいい」と受け取る構造になる。ゆえに、簡単に褒められる状況と褒める人が育ちにくい。
いいと思った事や、みたまんま褒められないとなると、ひねりを加えないといけないことになる。これは非常に難しい。何に努力をしているのか何に心を寄せているのか、見えない。褒められた人が褒められた事に価値を置いていないと、意味がない。
ただ、ジョハリの窓のように、周囲から褒められた人は、その人が周囲から指摘されている美点に気づいていないとき、両者とも理解しあえない。残業は本来しなくていいはずなのに、当然の事として捉えている人にとって「残業大変だったでしょう」は心が揺れない。
しかし、褒めるやり方としてちょっと強引なのが、「私メッセージ」をつかった褒め方だと思う。誰が何を言おうと「私はあなたのここが素敵だと思う」相手が欲しい承認(利他的な褒める)ではなくて、自分本位な褒め方で褒めることを続ける。だんだんと褒められた人は、そのことに関して関心を持つようになって、好意的であるならば、窓があることに気がつく。ただ、褒めることは興味を持ち続けていないと難しい行為(好意)だと思う。
親友よ、ありがとう。ごめんなさい。
まとめていくと、かわいいという言葉には、目には見えない攻防があると考えられる。
かわいいを分析していくと褒める文化がなくて、褒める人と褒められる人が育ちにくいことがわかる。言葉の使用に基づく、意味の幅と価値付けにより、「かわいい」は解釈しにくく、コンテキスト(文脈)に比重がかかる言葉と言える。
つまり修行しないとかわいいは使えない!!!
あとがっきー
勝ち負けじゃないけど、どうやってリボルバーでマシンガンが飛び交うなかに飛び込めるのか知りたい。下手に一つの単語に反応して価値を置きに行くと蜂の巣にされるのがオチ!この前、「あっ(察し」になったから、あちゃーと思いましたね滝汗
どうやら女性の発話には一単語3つ程の意味があるらしい。意味センサーも複数ある。
男性は一単語に複数の価値を入れるらしい。意味センサーは一つ。
女性の発話は3本の矢が放たれる。男性はセンサーが一つしかないから2本ほどキャッチできない。体に刺さる。
なので、意味の幅を質問できる男性との会話はテンポ良くならない。質問しない人はわからないから質問できない場合がある。男性の発話は箱の中に全部入れてあるから、開ければわかる。開けて蛇が飛び出してきても、驚かずにもいであげましょう。(怖ろしい
男性の会話の仕方を知っている女性は、意味の幅を抑えて話をしていることがわかる。
所感として30歳を過ぎたあたりからと思う。
女性の話をいくらでも聴ける人は、意味を捉えられないところを知っていて、価値付けする考え方を抑える。言葉を撫でるかのように、感情の起伏に敏感に反応して、まるで読書をするかのよう。
ーー
どこか女性は傷つきによって、男性は理解することによって強くなっていくような気がする。
中学生の頃から街ゆく人々の靴を見ている。
靴を見ればその人の大体がわかると聞いたからだ。人のどこかを見てその人がわかるといった本を買っていたような気がする。この辺は立正大学の斉藤勇さんが図解雑学『外見心理学』で纏められているので良かったらどうぞ。
実際のところ、分かる(見立て)ことは
・人の目を気にしているか
・経済的な状況予想
・美的センス(色彩・靴の形・衣服)
・ここ最近の健康度
・街に慣れているか
・色彩心理に基づいた性格予想
ざっとこんなもんだと思います。
見立てとしたのは、確かめられていないからです。これを個人的に調査できたら
「おまえはもう、見抜かれている」とか一般的な厨二病セリフを言えそうな気がします。ちなみにブログは文字の色やフォント変更、写真も3枚まで載っけられます。
さて靴磨き職人は、このサラリーマンは出世するかどうか分かるそうです。
革靴のヘタリや折れやキズに磨かれているかどうか。靴の状態から、たぶん歩き方から判断しているのだと思います。女性が男性の手と爪を見るようなものでしょう。清潔感は生き方に反映されていると持論を主張します。うわっ、主張しながら出来てないやんw
毎回人に会うたびに爪の手入れしてなくて鬱々とするわーまあいいやぁ(秋葉原のアトレ2Fのメンズネイル行ってこようかなぁ、近所は3.5kでだしなあ
自分は自分が”わかる範囲で”その空間の人々や前にあった時と違うところを語らないまでも、見ています。褒める技術ってここで表現するから上手になるんだろうなぁと思いながら。そのくせ、見られているという意識がかけているのがバカだなと思うんですけど。ぼくは客体の意識が薄いらしい。
あっ、ここdiarynoteはシンプルな日記として主に世界的カードゲーム
「マジック・ザ・ギャザリング」通称MTG プレイヤーの巣窟になっています。
あと言論統制がないと言って過言じゃないので、暴論や悲劇のヒロイン・プリンスも結構いたり、日常をかいている平和な人が少ない印象です。相互リンクしている人しか見れない秘密日記もあるので、秘密になんか書いてあるだろーと疑い始めると、精神的な健康度が削がれてしまうので考えないようにしましょう。
なお、よくサーバーが落ちてて閲覧と編集ができなくなるので、見れない時は再度お越しください。
靴のソールがどっちに削れているかで、身体に靴があっているのか、歩き方と姿勢。
腰痛や下肢の疲れ具合を予想しています。歩き方でなんちゃらのデューク更家さんなんか、見りゃわかるらしい。ちなみに靴にフェティッシュは生じさせていないので安心してください。両手で後ろ髪をかき上げる様は、裸を見てしまったような罪悪感と気恥ずかしさから目を逸らします。
単純に、好きと言えばいいのにwややこしい書き方してなぁっっw
手が隠れる=無防備な姿勢になる=特定の思考が触発される=キャー///
(ミロのビーナスに腕があったら、腕を想像する芸術としてなりたたなくって、人は腕や手にいろんな身体的・意味を込めている。手は人!!といっても過言じゃないし、単純に手や腕は攻撃と防御に使えるため、それが隠れるということは無防備になることを人間の無意識は知っている。普段は社会的規範から立ち上がらない、侵害性が立ち上ってきて、攻撃性に転化できないから自分の心にとどまる、萌え♪になるんでしょうね。切なさと同様な原理でしょう。
寂しいことを寂しいって言えたら寂しくなくなるんです)
最近人工知能の記事を読んでいると、小説『空の境界』がちらちらと連想されます。
かっこいい厨二病の奈須きのこが描くこの世界は、哲学的な問答と心理学的なワードがあちこち出てきたりして面白いです。ユング心理学がベースなのかなって思います。
特に人工知能と関連してああこれはって思ったのは、蒼崎橙子がアルバとアラヤに殺されてアルバの前に再登場したところ。殺した橙子が実は人形で、人形は橙子と寸分違わずに作られてて、自分と同じ人形を作れば自分が死んでも、この世界と私という成長し続ける存在は変わらないところが思い浮かぶ。
「これがあれば私は必要ないんじゃないかって」
社会にとって同じ性質の存在が活動していれば、私という存在がなくなっても困らない。双子は遺伝子が一緒だけど、生活を一緒にしていれば違う思考判断になるから、別の存在ということが言える。けど、生き別れていると差異を作る必要がないから同じと言えるだろう。
まだ電脳化されない世にとって、身体は固有性を保持している。
身体(脳)から作られる精神・心も固有であり続ける。そう思うと、目の前の人物の存在は非常にかけがえのない現象で、差別的な相対的価値というある種の規範が根底から揺らぐ。主人公の名前が両儀ってのもね!
精神よりも大事なのは身体です。身体がなければ精神活動が出来ないから、心理療法よりも森田療法のような身体を休ませる技術が好きです。精神疾患になるのも浮腫んで太るのも、過食も拒食も睡眠不足からといっても過言じゃないと思います。
なので、マッサージを受けるのもするのも好きです。接骨院に通い続けて1年くらいになるので、座りっぱなしの運転手やオフィスワーカー、自転車をする人がどこが痛くなりやすいのか知っています。腕のいい、博識な先生に毎回いじめられています。あんまりにもなので「いじわるだっ(ぐすん」とこぼしてしまいました。決して、犬な男子じゃないです。
ああ、僕は人が喜んでいる姿や笑顔が見たくって、生きているんだなと思います。
プレゼント魔じゃないけど、人に何かあげたくなる。これは母方祖母の性格的傾向なんだろうなって思ったり、さみしがり屋さんからきてるんだろうと思ったり。
外で働くよりも専業主夫の方が合ってるんじゃないかと、割と真剣に考えたりします。生まれてきた性別間違えたかな?まぁ、心理的両性具有アンドロジニー(僕の言語処理は男性で感じ方は女性的なみたいな)だし、いろんなこと連想するよね。
靴を見ればその人の大体がわかると聞いたからだ。人のどこかを見てその人がわかるといった本を買っていたような気がする。この辺は立正大学の斉藤勇さんが図解雑学『外見心理学』で纏められているので良かったらどうぞ。
実際のところ、分かる(見立て)ことは
・人の目を気にしているか
・経済的な状況予想
・美的センス(色彩・靴の形・衣服)
・ここ最近の健康度
・街に慣れているか
・色彩心理に基づいた性格予想
ざっとこんなもんだと思います。
見立てとしたのは、確かめられていないからです。これを個人的に調査できたら
「おまえはもう、見抜かれている」とか一般的な厨二病セリフを言えそうな気がします。ちなみにブログは文字の色やフォント変更、写真も3枚まで載っけられます。
さて靴磨き職人は、このサラリーマンは出世するかどうか分かるそうです。
革靴のヘタリや折れやキズに磨かれているかどうか。靴の状態から、たぶん歩き方から判断しているのだと思います。女性が男性の手と爪を見るようなものでしょう。清潔感は生き方に反映されていると持論を主張します。うわっ、主張しながら出来てないやんw
毎回人に会うたびに爪の手入れしてなくて鬱々とするわーまあいいやぁ(秋葉原のアトレ2Fのメンズネイル行ってこようかなぁ、近所は3.5kでだしなあ
自分は自分が”わかる範囲で”その空間の人々や前にあった時と違うところを語らないまでも、見ています。褒める技術ってここで表現するから上手になるんだろうなぁと思いながら。そのくせ、見られているという意識がかけているのがバカだなと思うんですけど。ぼくは客体の意識が薄いらしい。
あっ、ここdiarynoteはシンプルな日記として主に世界的カードゲーム
「マジック・ザ・ギャザリング」通称MTG プレイヤーの巣窟になっています。
あと言論統制がないと言って過言じゃないので、暴論や悲劇のヒロイン・プリンスも結構いたり、日常をかいている平和な人が少ない印象です。相互リンクしている人しか見れない秘密日記もあるので、秘密になんか書いてあるだろーと疑い始めると、精神的な健康度が削がれてしまうので考えないようにしましょう。
なお、よくサーバーが落ちてて閲覧と編集ができなくなるので、見れない時は再度お越しください。
靴のソールがどっちに削れているかで、身体に靴があっているのか、歩き方と姿勢。
腰痛や下肢の疲れ具合を予想しています。歩き方でなんちゃらのデューク更家さんなんか、見りゃわかるらしい。ちなみに靴にフェティッシュは生じさせていないので安心してください。両手で後ろ髪をかき上げる様は、裸を見てしまったような罪悪感と気恥ずかしさから目を逸らします。
単純に、好きと言えばいいのにwややこしい書き方してなぁっっw
手が隠れる=無防備な姿勢になる=特定の思考が触発される=キャー///
(ミロのビーナスに腕があったら、腕を想像する芸術としてなりたたなくって、人は腕や手にいろんな身体的・意味を込めている。手は人!!といっても過言じゃないし、単純に手や腕は攻撃と防御に使えるため、それが隠れるということは無防備になることを人間の無意識は知っている。普段は社会的規範から立ち上がらない、侵害性が立ち上ってきて、攻撃性に転化できないから自分の心にとどまる、萌え♪になるんでしょうね。切なさと同様な原理でしょう。
寂しいことを寂しいって言えたら寂しくなくなるんです)
最近人工知能の記事を読んでいると、小説『空の境界』がちらちらと連想されます。
かっこいい厨二病の奈須きのこが描くこの世界は、哲学的な問答と心理学的なワードがあちこち出てきたりして面白いです。ユング心理学がベースなのかなって思います。
特に人工知能と関連してああこれはって思ったのは、蒼崎橙子がアルバとアラヤに殺されてアルバの前に再登場したところ。殺した橙子が実は人形で、人形は橙子と寸分違わずに作られてて、自分と同じ人形を作れば自分が死んでも、この世界と私という成長し続ける存在は変わらないところが思い浮かぶ。
「これがあれば私は必要ないんじゃないかって」
社会にとって同じ性質の存在が活動していれば、私という存在がなくなっても困らない。双子は遺伝子が一緒だけど、生活を一緒にしていれば違う思考判断になるから、別の存在ということが言える。けど、生き別れていると差異を作る必要がないから同じと言えるだろう。
まだ電脳化されない世にとって、身体は固有性を保持している。
身体(脳)から作られる精神・心も固有であり続ける。そう思うと、目の前の人物の存在は非常にかけがえのない現象で、差別的な相対的価値というある種の規範が根底から揺らぐ。主人公の名前が両儀ってのもね!
精神よりも大事なのは身体です。身体がなければ精神活動が出来ないから、心理療法よりも森田療法のような身体を休ませる技術が好きです。精神疾患になるのも浮腫んで太るのも、過食も拒食も睡眠不足からといっても過言じゃないと思います。
なので、マッサージを受けるのもするのも好きです。接骨院に通い続けて1年くらいになるので、座りっぱなしの運転手やオフィスワーカー、自転車をする人がどこが痛くなりやすいのか知っています。腕のいい、博識な先生に毎回いじめられています。あんまりにもなので「いじわるだっ(ぐすん」とこぼしてしまいました。決して、犬な男子じゃないです。
ああ、僕は人が喜んでいる姿や笑顔が見たくって、生きているんだなと思います。
プレゼント魔じゃないけど、人に何かあげたくなる。これは母方祖母の性格的傾向なんだろうなって思ったり、さみしがり屋さんからきてるんだろうと思ったり。
外で働くよりも専業主夫の方が合ってるんじゃないかと、割と真剣に考えたりします。生まれてきた性別間違えたかな?まぁ、心理的両性具有アンドロジニー(僕の言語処理は男性で感じ方は女性的なみたいな)だし、いろんなこと連想するよね。
課題と仕事が捗るように早く寝るようにしました。
専門に入った理由は当時、大学院に入るより早く専門的な学習がしたかったため。
仕事と学習内容の乖離に耐えられなくなっていた3月、10年ほどお世話になっているスタイリストさんのところでヘアカットしてもらっているときに、いつものように雑談と相談をしていたら「時間がもったいない」と後押しされて、迷いながら第6次出願をしました。迷いに迷っていたため入学と同時に課題の山が押し寄せてしまって、今も大変です。
読まれている人にとって、僕が卑屈に囚われているじゃないかと思われるかもしれないんですけど、ずっと自分はやりたいことをしていなかったと思います。なにかやらされているような気持ちで過ごしてきました。教師もゲームデザイナーになることも小学校中学校それぞれ抱いてきましたけど、諦めて。家庭環境と人間関係、進学と自分の神経症的なものの回復ために心理学を学ぶ。そのために大学を進学したような気がします。
もちろん、いま思い返せば授業は楽しかったです。家族心理学のきょうだい心理のミニューチンや教育心理の最近接発達領域、社会心理学一般など、他の大学と違うところは犯罪心理学を学べたことでしょうか。最近では教授はテレビ出演するのが当たり前のようになり、ツイッターで炎上していました。
ようやく何が好きで何が嫌いで何をしていきたいのか、まるで15歳の青年が自分と友達と社会との関係性の中でアイデンティティを勝ち取っていくことを、27にしてやっている状況です。本当に男の子との成長は女の子と比べて遅い。
なぜなら、自分を守るために精神的な振る舞いを大人のようにして、心理的な自己欲求をないがしろにしてしまってきた、これまでがあります。いまは生き方を変える転換期です。去年から生き方を変えないと首を吊りそうな心持ちだったので、遅い春いまは秋ですけど、迎えられて良かったと思います。何度も言ってきましたけど、これからもいい続けますが、アーレントの講演会に行ってから人生が変わり始めた。去年の3月に運送屋さんを転職しなければ、失業し続けることもなくてお金も幸せも貯められたと思う。けれど、続けていたら講演会に行ける時間に帰ってこられなかったし、疲労からいく気もなかったと思う。親友とも話をしていてそう思います。
夢を描けるようになりました。まだまだボヤけていますけど。
いまの夢は現実可能なキャリアをPSW(社会的インターフェース)として獲得していくこと。将来の恋人、奥さんの人生・キャリアを支えること。結婚してこどもを3人授かること。
かっこいいオヤジになりたい。
----
経験的に家庭の中で父親の役割が奥さんの精神的な支えになっていることを知っているので、家庭で奥さんが元気があれば家庭はだいたい円満。そのための努力は惜しみたくないなぁ。逆に奥さんに元気がなかったら、夫が悪いのは明白なわけで(滝汗
専門に入った理由は当時、大学院に入るより早く専門的な学習がしたかったため。
仕事と学習内容の乖離に耐えられなくなっていた3月、10年ほどお世話になっているスタイリストさんのところでヘアカットしてもらっているときに、いつものように雑談と相談をしていたら「時間がもったいない」と後押しされて、迷いながら第6次出願をしました。迷いに迷っていたため入学と同時に課題の山が押し寄せてしまって、今も大変です。
読まれている人にとって、僕が卑屈に囚われているじゃないかと思われるかもしれないんですけど、ずっと自分はやりたいことをしていなかったと思います。なにかやらされているような気持ちで過ごしてきました。教師もゲームデザイナーになることも小学校中学校それぞれ抱いてきましたけど、諦めて。家庭環境と人間関係、進学と自分の神経症的なものの回復ために心理学を学ぶ。そのために大学を進学したような気がします。
もちろん、いま思い返せば授業は楽しかったです。家族心理学のきょうだい心理のミニューチンや教育心理の最近接発達領域、社会心理学一般など、他の大学と違うところは犯罪心理学を学べたことでしょうか。最近では教授はテレビ出演するのが当たり前のようになり、ツイッターで炎上していました。
ようやく何が好きで何が嫌いで何をしていきたいのか、まるで15歳の青年が自分と友達と社会との関係性の中でアイデンティティを勝ち取っていくことを、27にしてやっている状況です。本当に男の子との成長は女の子と比べて遅い。
なぜなら、自分を守るために精神的な振る舞いを大人のようにして、心理的な自己欲求をないがしろにしてしまってきた、これまでがあります。いまは生き方を変える転換期です。去年から生き方を変えないと首を吊りそうな心持ちだったので、遅い春いまは秋ですけど、迎えられて良かったと思います。何度も言ってきましたけど、これからもいい続けますが、アーレントの講演会に行ってから人生が変わり始めた。去年の3月に運送屋さんを転職しなければ、失業し続けることもなくてお金も幸せも貯められたと思う。けれど、続けていたら講演会に行ける時間に帰ってこられなかったし、疲労からいく気もなかったと思う。親友とも話をしていてそう思います。
夢を描けるようになりました。まだまだボヤけていますけど。
いまの夢は現実可能なキャリアをPSW(社会的インターフェース)として獲得していくこと。将来の恋人、奥さんの人生・キャリアを支えること。結婚してこどもを3人授かること。
かっこいいオヤジになりたい。
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経験的に家庭の中で父親の役割が奥さんの精神的な支えになっていることを知っているので、家庭で奥さんが元気があれば家庭はだいたい円満。そのための努力は惜しみたくないなぁ。逆に奥さんに元気がなかったら、夫が悪いのは明白なわけで(滝汗
来年の春まで課題と施設・病院への研修のため、過労で普通の精神状態ではないことが予想されます。仕事も朝が早い仕事なので、夜に友達と会うということもないため、孤独に拍車がかかります。
適当に声をかけてもらえると大変に非常に助かります。
きっと乗り越えられるし、これを乗り越えられないとかっこよくなれないので、
どうかお力添えのほどよろしくお願いいたします。
適当に声をかけてもらえると大変に非常に助かります。
きっと乗り越えられるし、これを乗り越えられないとかっこよくなれないので、
どうかお力添えのほどよろしくお願いいたします。
時間が経ったら、掲載します。
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人は大きく成長しない。成長するときは思春期や病気から回復するときであって、おおくの人は、大きく飛躍しない。
いま病気になっているわけじゃない。身体も健康。精神は寝不足気味で稼働率は良くない。もっとも、いつも得意分野の中にいるわけじゃないから、効率化なんてものを考えていること自体無駄なこと。
一方、自己成長の飛躍を感じているのは、この歳にして心理的な年齢が14.15歳の思春期になれたからだろう。精神年齢はきっと振る舞いの指標を指しているんじゃないかと、心理的年齢と精神年齢を考えたときに思った。
男の成長は女の人と比べてはるかに遅い。
色んな物語や小説に登場する男性はおおよそ、何もかも女性に見透かされて、恥ずかしい思いをしながら行動を起こすのだろうと・・・なにを書いているんだろう。ただ、キーボードのタイピングが止まらない。
それくらいに男女比較をしたときに、目がくらむような気持になる。新海誠の「秒速5センチメートル」を読みながら思った。
夏目漱石の「三四郎」
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
武者小路実篤「友情」
「友情」は毛色が別にして、どれも若い男が夢と現実に格闘して勝手に大失恋するお話だと思う。その様はただの壁に命を燃やして踊りまくるようで、見ている読者にとっては面白いのかもしれない。けれど、主人公はその壁が桃源郷のように思えて、振り向いてもらいたくて踊る。壁に恋をする。それはそれは真剣に。
でも無理なことを勝手に悟って、持ち運びが簡単な花瓶を愛するようになるのだろうと。壁を叩き続けなければ、扉は開かないというのに。自分のおもちゃ箱(力関係と理解の範疇)に入るようなものが好きなのは、皆同じだろう。カテゴライズしなくてされない、あるがまま、そのままでよい。これらを求めて人々はわざわざ演劇を始めるのは面白い。
若きウェルテルの悩みから友情を読んで三四郎を読んだ。
「友情」は武者小路実篤が夏目漱石を尊敬して作られた話のようで、「三四郎」と話が似ている。僕は「友情」の方が好きだ。ラストの”神よ我をたすけたまえ”だっただろうか、アニメ・ホワイトアルバムⅡを連想させるようで好き。
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人は大きく成長しない。成長するときは思春期や病気から回復するときであって、おおくの人は、大きく飛躍しない。
いま病気になっているわけじゃない。身体も健康。精神は寝不足気味で稼働率は良くない。もっとも、いつも得意分野の中にいるわけじゃないから、効率化なんてものを考えていること自体無駄なこと。
一方、自己成長の飛躍を感じているのは、この歳にして心理的な年齢が14.15歳の思春期になれたからだろう。精神年齢はきっと振る舞いの指標を指しているんじゃないかと、心理的年齢と精神年齢を考えたときに思った。
男の成長は女の人と比べてはるかに遅い。
色んな物語や小説に登場する男性はおおよそ、何もかも女性に見透かされて、恥ずかしい思いをしながら行動を起こすのだろうと・・・なにを書いているんだろう。ただ、キーボードのタイピングが止まらない。
それくらいに男女比較をしたときに、目がくらむような気持になる。新海誠の「秒速5センチメートル」を読みながら思った。
夏目漱石の「三四郎」
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
武者小路実篤「友情」
「友情」は毛色が別にして、どれも若い男が夢と現実に格闘して勝手に大失恋するお話だと思う。その様はただの壁に命を燃やして踊りまくるようで、見ている読者にとっては面白いのかもしれない。けれど、主人公はその壁が桃源郷のように思えて、振り向いてもらいたくて踊る。壁に恋をする。それはそれは真剣に。
でも無理なことを勝手に悟って、持ち運びが簡単な花瓶を愛するようになるのだろうと。壁を叩き続けなければ、扉は開かないというのに。自分のおもちゃ箱(力関係と理解の範疇)に入るようなものが好きなのは、皆同じだろう。カテゴライズしなくてされない、あるがまま、そのままでよい。これらを求めて人々はわざわざ演劇を始めるのは面白い。
若きウェルテルの悩みから友情を読んで三四郎を読んだ。
「友情」は武者小路実篤が夏目漱石を尊敬して作られた話のようで、「三四郎」と話が似ている。僕は「友情」の方が好きだ。ラストの”神よ我をたすけたまえ”だっただろうか、アニメ・ホワイトアルバムⅡを連想させるようで好き。
タイトルに草枕の視点と書いてみたものの大それたことを書くわけじゃない。
草枕は特殊な小説になっている。それは物語として順序立っていないこと。
それよりも、この草枕という作品は、ある男の目の前に見えるものと思考と心情をかいた芸術作品なのだろうと思う。山や風を見て感じて、人々の文化について考えを論じる。
これは普段、多くの人が行っていることの一つに過ぎないのだろうと、炎天下のなか、建築現場のダンボールを清掃車にせっせと巻いている時に考えていた。
手と腕を動かし、軽いダンボールを重ねて腕で挟み込む。どうしてダンボールの一枚は貧弱で軽いのに数枚重なるだけで重さが加速度的に重くなるのだろう。いったい、人間の皮膚センサーと脳の重量センサーはどういった連動をしているのか、まったくもってわからない。けれど、疲労があろうとなかろうと、加速度的に重くなっていくのは間違いない。数字に表したら、理路整然と3+3は6だけれど、12のように感じるのは・・・やはり、皮膚センサーの圧力計か?
それにしても一人で処理をするには膨大なダンボールの山は無力感を感じずにはいられない。数枚重ねても重量にはならない。静脈産業の多くは重量によって生計をたてている。お金に化けるバラバラの山は、100万円の価値があったとしても、それらの一つ一つは1円玉硬貨と同義で、途方もない数のコインを拾わなければならない。ああ、無力感と虚無感が生じ始めてきた。無力感を焦点化して考え始めたら、無気力になって一日努力した思いが無駄になってしまう。いちいち20世紀最大のユーモアを出さないでいいだろう。
ホッファーだったら皮肉を述べるか、シモーヌ・ヴェイユなら傷つきすぎて大変だったと述べる暇なんかないというだろうか、栗原一止ならかかる眼前の敵なんていっただろうか。
「それにしても暑いし、なんで今朝事故を起こしちゃったんだろ?さいあくだ」
「この仕事は朝が早いし、休憩時間ってものは運転中そのもので休まらない」
「いったい、君は普通の仕事に就かないのかよ、何を嫌ってるのかわからない」
「この業務のメリットは午後にまとまった休みが取れること」
「社会人はめったに参加できない夕方の講演会に行けること」
「最大のデメリットは人の中にいて人と繋がりたいと思っている君が、会いたい人達に会えないことだ」
「PSWになるにしても、普通の9時18時のホワイトカラーにならないと」
「君は幸せにならなきゃならないんだし、幸せになりたい」
「人の中に心寄せたいのだから」
こんなエミール調の対話をして何になるのだろう。外は暑くて建設現場は埃が舞うし友達は当然、仕事しているから横にはいないし、電話をかけたい相手はたくさんいるけれど、なにを話題に話したら良いのか皆目検討つかない。大きな不幸はなかったにせよ、小さな不幸が積み重なって孤独になったんだろう。去年の今頃は寝込んで自殺のハイリスク群の真っ只中で、ああ一人で死んでいくのかと思った。けど、いま一人で死んでいくのも無意味か。なんでこの精神は唯一の殺人を正当化してくれないんだ、いくら心理学を学んだところで強くなったりしない。
優しさという善にも悪にもなる技術を持ち合わせるだけだというのに。
人は傷つきを覚えなければ、思いやりを持つことはないのだろうか?
孤独は孤独を脂肪細胞のように生成して蓄えるような気がする。なんて、孤独について考えてしまうスイッチが入った先週はなにも手につかなかった。
「これでおしまいっと!やったー!!1t積んだぁぁぞ!」
嬉しくて両腕を天に突き刺す。笑みがこぼれて、自分を見ていた作業員も笑い出す。
そのあと彼は、50分かけて積んだダンボールの計量表を見て、680kgしかないことに笑みのまま落胆した。
草枕は特殊な小説になっている。それは物語として順序立っていないこと。
それよりも、この草枕という作品は、ある男の目の前に見えるものと思考と心情をかいた芸術作品なのだろうと思う。山や風を見て感じて、人々の文化について考えを論じる。
これは普段、多くの人が行っていることの一つに過ぎないのだろうと、炎天下のなか、建築現場のダンボールを清掃車にせっせと巻いている時に考えていた。
手と腕を動かし、軽いダンボールを重ねて腕で挟み込む。どうしてダンボールの一枚は貧弱で軽いのに数枚重なるだけで重さが加速度的に重くなるのだろう。いったい、人間の皮膚センサーと脳の重量センサーはどういった連動をしているのか、まったくもってわからない。けれど、疲労があろうとなかろうと、加速度的に重くなっていくのは間違いない。数字に表したら、理路整然と3+3は6だけれど、12のように感じるのは・・・やはり、皮膚センサーの圧力計か?
それにしても一人で処理をするには膨大なダンボールの山は無力感を感じずにはいられない。数枚重ねても重量にはならない。静脈産業の多くは重量によって生計をたてている。お金に化けるバラバラの山は、100万円の価値があったとしても、それらの一つ一つは1円玉硬貨と同義で、途方もない数のコインを拾わなければならない。ああ、無力感と虚無感が生じ始めてきた。無力感を焦点化して考え始めたら、無気力になって一日努力した思いが無駄になってしまう。いちいち20世紀最大のユーモアを出さないでいいだろう。
ホッファーだったら皮肉を述べるか、シモーヌ・ヴェイユなら傷つきすぎて大変だったと述べる暇なんかないというだろうか、栗原一止ならかかる眼前の敵なんていっただろうか。
「それにしても暑いし、なんで今朝事故を起こしちゃったんだろ?さいあくだ」
「この仕事は朝が早いし、休憩時間ってものは運転中そのもので休まらない」
「いったい、君は普通の仕事に就かないのかよ、何を嫌ってるのかわからない」
「この業務のメリットは午後にまとまった休みが取れること」
「社会人はめったに参加できない夕方の講演会に行けること」
「最大のデメリットは人の中にいて人と繋がりたいと思っている君が、会いたい人達に会えないことだ」
「PSWになるにしても、普通の9時18時のホワイトカラーにならないと」
「君は幸せにならなきゃならないんだし、幸せになりたい」
「人の中に心寄せたいのだから」
こんなエミール調の対話をして何になるのだろう。外は暑くて建設現場は埃が舞うし友達は当然、仕事しているから横にはいないし、電話をかけたい相手はたくさんいるけれど、なにを話題に話したら良いのか皆目検討つかない。大きな不幸はなかったにせよ、小さな不幸が積み重なって孤独になったんだろう。去年の今頃は寝込んで自殺のハイリスク群の真っ只中で、ああ一人で死んでいくのかと思った。けど、いま一人で死んでいくのも無意味か。なんでこの精神は唯一の殺人を正当化してくれないんだ、いくら心理学を学んだところで強くなったりしない。
優しさという善にも悪にもなる技術を持ち合わせるだけだというのに。
人は傷つきを覚えなければ、思いやりを持つことはないのだろうか?
孤独は孤独を脂肪細胞のように生成して蓄えるような気がする。なんて、孤独について考えてしまうスイッチが入った先週はなにも手につかなかった。
「これでおしまいっと!やったー!!1t積んだぁぁぞ!」
嬉しくて両腕を天に突き刺す。笑みがこぼれて、自分を見ていた作業員も笑い出す。
そのあと彼は、50分かけて積んだダンボールの計量表を見て、680kgしかないことに笑みのまま落胆した。
https://youtu.be/vN0eb4jLrzM
心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないとゆう訳でもないけど
人は皆わがままだ
慣れあいの様に暮しても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから
君が君であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
君は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
------
あえてミスチルver,でお届けします。
いま好きっていう感情を取り戻そうと頑張っています。
論理的に考えてみれば、専門学校に入学して学習の機会を設けられていることは凄いことで、学べない人がいる社会において。
高い授業料を払って学んでいる自分は、すごく贅沢な生活をしているんだなと感じます。勉強することが本当に嫌いだったら、授業料は別の物質的な価値にしたらいい。けれど、そうしないで未来の自分のため、過去の幼き日の少年の「学者さんになる夢」を叶えるために、身体と精神を酷使して、学習できる環境を保ち続けている。
じゃあ何のために好きになりたいかって。好きを好きであり続けたい。
勉強が嫌いな訳じゃない。これまで勉強のやり方、問題の解き方をを教えてくれないことが、本当に悲しかった。漢字は好きでした。もっと面白かったのは算数と理科。いや、全部の教科が好きでした。
算数を一から学び直そうと思ったのも、バカだと言われて言い返せないのを覆すという理由はあるけれど、問題を解ける快感を再び味わいたいから。それに、東大生が考案したナブラ演算子ゲームというカードゲームがあって、これを友達とプレイしたくって。
今のところ課題処理で忙しいけれど、いま考えられる最高の家庭教師を味方にできたから頑張りたい。
そう、僕が好きっていう気持ちがわかるまで、僕は好きになりたいことをやり続けなきゃらないんだ。
心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないとゆう訳でもないけど
人は皆わがままだ
慣れあいの様に暮しても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから
君が君であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
君は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる
------
あえてミスチルver,でお届けします。
いま好きっていう感情を取り戻そうと頑張っています。
論理的に考えてみれば、専門学校に入学して学習の機会を設けられていることは凄いことで、学べない人がいる社会において。
高い授業料を払って学んでいる自分は、すごく贅沢な生活をしているんだなと感じます。勉強することが本当に嫌いだったら、授業料は別の物質的な価値にしたらいい。けれど、そうしないで未来の自分のため、過去の幼き日の少年の「学者さんになる夢」を叶えるために、身体と精神を酷使して、学習できる環境を保ち続けている。
じゃあ何のために好きになりたいかって。好きを好きであり続けたい。
勉強が嫌いな訳じゃない。これまで勉強のやり方、問題の解き方をを教えてくれないことが、本当に悲しかった。漢字は好きでした。もっと面白かったのは算数と理科。いや、全部の教科が好きでした。
算数を一から学び直そうと思ったのも、バカだと言われて言い返せないのを覆すという理由はあるけれど、問題を解ける快感を再び味わいたいから。それに、東大生が考案したナブラ演算子ゲームというカードゲームがあって、これを友達とプレイしたくって。
今のところ課題処理で忙しいけれど、いま考えられる最高の家庭教師を味方にできたから頑張りたい。
そう、僕が好きっていう気持ちがわかるまで、僕は好きになりたいことをやり続けなきゃらないんだ。
人の幸せは人と繋がることで生まれる。
理解され理解し、ミスコミュニケーションをなるべく無くした共感力。その人が持つ固有の世界を大事にする、思いやり。愛とはおおよそ「安心」のことである。愛するとは安心を与えることだ。
愛をくださいとドラマや漫画で耳にする時は、「安心をください」と聞こえる。
人の、哺乳類の第一次欲求は安全への欲求。それを満たしてから次の欲求に移っていくと唱えたのはマズローではあるけれど、そうした安全がない状況でも精神的な聖域を作れることを示唆したのはフランクルだった。
特化型人工知能から汎用性人工知能、VRが話題になっている。
生活や生きかたを変えてきたテクノロジーを今後どのように使っていくのかという話で持ちきりだ。カーナビができてから、運転手の仕事は随分と楽になったと思う。普段の業務でスマホでGoogle MAPナビを使って知らない場所に回収をしたり最適なルートを提示してもらっている。Google MAPナビがあるから、若者の車離れが叫ばれている世相において、スマホのナビ・カーナビによって若者をベテランドライバーに仕上がる。
けど、細い道や抜け道には対応していないから、長く運転手をしている人は運転中の信号待ちでマップルなどの地図帳を開いて熱心に道を頭の中に取り込んでいる。
今のところ、ふわりとした身体知や直感のほうが人間のほうが優れていると言われているけれど、その均衡は破れるだろう。破れた後で、人間性主義の崩壊、VRへの没入によって身体が要らない状況になることが予想される。攻殻機動隊という有名な作品があるけれど、そうした世界になっていくのだろう。どちらかといえば、人間は遊ぶ動物だから「ソードアートオンライン」の世界で走り回っているのかもしれない。
ただ「ソードアートオンライン」で遊びとして成立するのは”死”がないからで、主人公キリト達が生き抜いた世界には、キャラクターの死によって現実世界の身体が死ぬ設定がある。虚構と現実性が薄れていく人間と社会で様々な社会問題が作中で登場する。まぁそれはおいておこう。
仮想空間が自分がいる空間だと認識し始めたとして、そこに新たな”死”を実装したら、どんな社会反応が起きるのだろう。ただ、人間・生物としての個別性のある精神存在が、仮想空間にあろうと現実なかろうと、つまるところ人間は死ぬ因果は逃れられないじゃないかと、達観したらこの僕の話は崩壊するのだけれども(にやり
けど、仮想空間に精神を置いても人は人を求める。
なぜかって皮膚感覚が人間にとって哺乳類、ううん原始的な生物にとっても存在すること、反応することの基盤になっているから。(まとめが弱い)
余談だけど人は遺伝子に乗っ取られている、遺伝子を運ぶ存在だと言われることがある。有名な脳科学者は生殖以外は余暇活動と言ってのけたらしい。ロクでもないと思うけど事実だと思う。平和な生活があれば。(脳科学者を男性だとラベルしたら思惑通り)
ここで差し込むけど性行為のSEXが嫌いな人って、いい人格者(家族友人恋人)に会ってないんだろうなって思う。皮膚の傷つきや冷たさを暖かさに変えるような人に。
アセクシャルな人とか無性欲の人は別にしてね。
-テクノロジーと援助専門家-
メスという飛び道具がない援助専門家は、一時苦痛を忘れさすことができても人を救えない。うつ病治療はTMS(磁力治療)の機械が代わって行い、援助専門家はエンジニアに取って代わるか鞍替えする。双極性障害の治療薬だってミトコンドリアと遺伝子解析ならびに脳バンクが作られて解決に向かう。緩やかな自殺の摂食障害だって、腸の解析だし。
メスや科学テクノロジーを持たない援助専門家は時代に対して無力だ。
けど、テクノロジーの移行期にはソーシャルワーカーは絶対に必要だし、黒子のような存在が表に立たされた事件もある。個人、地域、立法、援助、研究へつなげる存在はなくてはならない。ただ、現段階で有用性のある切り札は援助者の皮膚感覚なのだ。
理解され理解し、ミスコミュニケーションをなるべく無くした共感力。その人が持つ固有の世界を大事にする、思いやり。愛とはおおよそ「安心」のことである。愛するとは安心を与えることだ。
愛をくださいとドラマや漫画で耳にする時は、「安心をください」と聞こえる。
人の、哺乳類の第一次欲求は安全への欲求。それを満たしてから次の欲求に移っていくと唱えたのはマズローではあるけれど、そうした安全がない状況でも精神的な聖域を作れることを示唆したのはフランクルだった。
特化型人工知能から汎用性人工知能、VRが話題になっている。
生活や生きかたを変えてきたテクノロジーを今後どのように使っていくのかという話で持ちきりだ。カーナビができてから、運転手の仕事は随分と楽になったと思う。普段の業務でスマホでGoogle MAPナビを使って知らない場所に回収をしたり最適なルートを提示してもらっている。Google MAPナビがあるから、若者の車離れが叫ばれている世相において、スマホのナビ・カーナビによって若者をベテランドライバーに仕上がる。
けど、細い道や抜け道には対応していないから、長く運転手をしている人は運転中の信号待ちでマップルなどの地図帳を開いて熱心に道を頭の中に取り込んでいる。
今のところ、ふわりとした身体知や直感のほうが人間のほうが優れていると言われているけれど、その均衡は破れるだろう。破れた後で、人間性主義の崩壊、VRへの没入によって身体が要らない状況になることが予想される。攻殻機動隊という有名な作品があるけれど、そうした世界になっていくのだろう。どちらかといえば、人間は遊ぶ動物だから「ソードアートオンライン」の世界で走り回っているのかもしれない。
ただ「ソードアートオンライン」で遊びとして成立するのは”死”がないからで、主人公キリト達が生き抜いた世界には、キャラクターの死によって現実世界の身体が死ぬ設定がある。虚構と現実性が薄れていく人間と社会で様々な社会問題が作中で登場する。まぁそれはおいておこう。
仮想空間が自分がいる空間だと認識し始めたとして、そこに新たな”死”を実装したら、どんな社会反応が起きるのだろう。ただ、人間・生物としての個別性のある精神存在が、仮想空間にあろうと現実なかろうと、つまるところ人間は死ぬ因果は逃れられないじゃないかと、達観したらこの僕の話は崩壊するのだけれども(にやり
けど、仮想空間に精神を置いても人は人を求める。
なぜかって皮膚感覚が人間にとって哺乳類、ううん原始的な生物にとっても存在すること、反応することの基盤になっているから。(まとめが弱い)
余談だけど人は遺伝子に乗っ取られている、遺伝子を運ぶ存在だと言われることがある。有名な脳科学者は生殖以外は余暇活動と言ってのけたらしい。ロクでもないと思うけど事実だと思う。平和な生活があれば。(脳科学者を男性だとラベルしたら思惑通り)
ここで差し込むけど性行為のSEXが嫌いな人って、いい人格者(家族友人恋人)に会ってないんだろうなって思う。皮膚の傷つきや冷たさを暖かさに変えるような人に。
アセクシャルな人とか無性欲の人は別にしてね。
-テクノロジーと援助専門家-
メスという飛び道具がない援助専門家は、一時苦痛を忘れさすことができても人を救えない。うつ病治療はTMS(磁力治療)の機械が代わって行い、援助専門家はエンジニアに取って代わるか鞍替えする。双極性障害の治療薬だってミトコンドリアと遺伝子解析ならびに脳バンクが作られて解決に向かう。緩やかな自殺の摂食障害だって、腸の解析だし。
メスや科学テクノロジーを持たない援助専門家は時代に対して無力だ。
けど、テクノロジーの移行期にはソーシャルワーカーは絶対に必要だし、黒子のような存在が表に立たされた事件もある。個人、地域、立法、援助、研究へつなげる存在はなくてはならない。ただ、現段階で有用性のある切り札は援助者の皮膚感覚なのだ。
美術館に行ってきました⑶
2016年8月27日 散文美術品を見ながら、先に進む友達との距離は置いて行かれないにした。
美術館を後にしたとき友達には「存在を忘れていた」と話したのだけれど、それは本当だった。集中力があった前半は解釈に没頭していた。けど置いて行かれないように最低限の距離を意識していた。いくつかの目線もあったと思う。デジャブも。
2階に上がって行って、映画鑑賞しているところで追いついた。
20分ほどの映画を上映していた。どうしてこの作品知ってるんだろうと思いながら、ベンチに座って鑑賞していた。けど、いつもデジャブを証明できる手立てはない。ただ、デジャブを見せられている存在に過ぎないのだから。
美術館の会場内には、休憩用のベンチが置いてある。
そこには今日の展示物の紹介本が置いてあって、フロアを見終わった後に再度確認できる仕組みがなされていた。紹介本を眺めながら友達と自分の疲労度合いを考慮した。美術館は歩くことは知っていたけれど本当に歩いたと思う。ゆっくり歩いて、じっくり鑑賞して、また歩いての繰り返し。入館してから2時間はあっという間だったけれども。
友達が履いていた靴は履き慣れているものかどうか、尋ねたら深く考えないで良かったのかもしれない。本当に質問することが全般的に苦手なんだと思う。あとになって自分は背が丸まっていなかったかと気になった。
2階のフロアは面白い作りをしていた。円形に美術品と年代が展示されていて、中央のパネルには芸術家を紹介してあって、中央に立てば展示物と年代を一挙に見渡せるのが素晴らしかった...これは教えてもらったことだけれど。僕はそこに気づけなくて悔しいなと思った。多分、他にもいろんなことに気づけていないのだと思う。
美術館で特に油絵に解釈することに没頭しながら、ふと考えたことがある。
成長型マインドセットとフロー状態と芸術的思考とアイデンティティ拡散について。一貫してこれらの言葉が示すのは、「好きなものを好きと言えるか」という問いだった。学習型マインドセットを持っている人は、それこそ勝手に好きなことをして成長していくし楽しいし、フロー状態を生み出せる。それはもう芸術的な自由度があって、アイデンティティ拡散とは無縁だろうと。
坂本真綾の「プラリネ」という素敵な曲がある。
この曲は好きな人と一緒に好きな場所や好きなことを数えていけたらいいねという、暖かくポップなメロディで、最近好きになりました。
この曲のように、好きなことを考えていたら不安や嫌いなことについて頭を占領しないで済むし、人生は明るく楽しくなる。僕はこれまで小さな不幸が積み重なって、楽しいことや嬉しいことを感じにくい、ちょっとした失陥感情を持っているように思える。多分、きっと自分の感情を移し変えてくれる人が、自分にとっていなかった。結構、こういうと親友に「いたはず。気に留められなかっただけ」と無情な感想をもらう。確かにそうなのだろう。
だからこそ、好きなことを好きなだけやれる人は、それだけで僕にとって圧倒的な存在感があるし羨ましい。好きでやっているから成功しやすいし成功体験も積み重なっていく。ゆえに僕もそうなりたいって。ずっと、労働と学習が乖離した世界にいて引き裂かれそうで、でも耐え続ける。意味がないのに意味があると信じて。
ただ、読書会に参加させてもらえるようになって、一つ自分の存在の有用性に気がついたと思う。ブルーワーカーはブルーの世界で通用する生活の仕方をしていて、これからシステムを作っていくだろう友達たちは生きている世界がまるで違う。
同じ言語を使いながら、男女の言語的な奥行きと意味的な幅の使い方が違うように、労働者とシステム構築者はそれはそれは理解し合いにくい。かつてジャポニカ学習帳に乗っていた、コウモリの童話は示唆的だし、社会人経験がソーシャルワーカーになるにあたって必要だということも。現場と研究(構築)の橋渡しをする存在がいかに必要であるか。
〜〜〜〜
そうだね、僕が幼くして手術を3回少し経って4回受けたことに意味があるね。
言葉の魔術師とよばれた、ミルトン・エリクソンのような重度な病気ではないけれど、大人たちがどのような心理的な機微を持って行動しているのかわかってしまった。その時に2歳3歳にして15歳くらいの思考が立ち上がったんだった。
食事の時間に目の前のカーテンが閉められて
「(食べられないことは知っているのにそんな無駄なことをして何になるんだ!!その配慮した顔を見て僕が看護婦さんの気持ちを配慮しなきゃならないじゃないか!!!)」
〜〜〜〜
いろんなことを美術館で考えていました。本当に楽しかったです。(^¥^@
美術館を後にしたとき友達には「存在を忘れていた」と話したのだけれど、それは本当だった。集中力があった前半は解釈に没頭していた。けど置いて行かれないように最低限の距離を意識していた。いくつかの目線もあったと思う。デジャブも。
2階に上がって行って、映画鑑賞しているところで追いついた。
20分ほどの映画を上映していた。どうしてこの作品知ってるんだろうと思いながら、ベンチに座って鑑賞していた。けど、いつもデジャブを証明できる手立てはない。ただ、デジャブを見せられている存在に過ぎないのだから。
美術館の会場内には、休憩用のベンチが置いてある。
そこには今日の展示物の紹介本が置いてあって、フロアを見終わった後に再度確認できる仕組みがなされていた。紹介本を眺めながら友達と自分の疲労度合いを考慮した。美術館は歩くことは知っていたけれど本当に歩いたと思う。ゆっくり歩いて、じっくり鑑賞して、また歩いての繰り返し。入館してから2時間はあっという間だったけれども。
友達が履いていた靴は履き慣れているものかどうか、尋ねたら深く考えないで良かったのかもしれない。本当に質問することが全般的に苦手なんだと思う。あとになって自分は背が丸まっていなかったかと気になった。
2階のフロアは面白い作りをしていた。円形に美術品と年代が展示されていて、中央のパネルには芸術家を紹介してあって、中央に立てば展示物と年代を一挙に見渡せるのが素晴らしかった...これは教えてもらったことだけれど。僕はそこに気づけなくて悔しいなと思った。多分、他にもいろんなことに気づけていないのだと思う。
美術館で特に油絵に解釈することに没頭しながら、ふと考えたことがある。
成長型マインドセットとフロー状態と芸術的思考とアイデンティティ拡散について。一貫してこれらの言葉が示すのは、「好きなものを好きと言えるか」という問いだった。学習型マインドセットを持っている人は、それこそ勝手に好きなことをして成長していくし楽しいし、フロー状態を生み出せる。それはもう芸術的な自由度があって、アイデンティティ拡散とは無縁だろうと。
坂本真綾の「プラリネ」という素敵な曲がある。
この曲は好きな人と一緒に好きな場所や好きなことを数えていけたらいいねという、暖かくポップなメロディで、最近好きになりました。
この曲のように、好きなことを考えていたら不安や嫌いなことについて頭を占領しないで済むし、人生は明るく楽しくなる。僕はこれまで小さな不幸が積み重なって、楽しいことや嬉しいことを感じにくい、ちょっとした失陥感情を持っているように思える。多分、きっと自分の感情を移し変えてくれる人が、自分にとっていなかった。結構、こういうと親友に「いたはず。気に留められなかっただけ」と無情な感想をもらう。確かにそうなのだろう。
だからこそ、好きなことを好きなだけやれる人は、それだけで僕にとって圧倒的な存在感があるし羨ましい。好きでやっているから成功しやすいし成功体験も積み重なっていく。ゆえに僕もそうなりたいって。ずっと、労働と学習が乖離した世界にいて引き裂かれそうで、でも耐え続ける。意味がないのに意味があると信じて。
ただ、読書会に参加させてもらえるようになって、一つ自分の存在の有用性に気がついたと思う。ブルーワーカーはブルーの世界で通用する生活の仕方をしていて、これからシステムを作っていくだろう友達たちは生きている世界がまるで違う。
同じ言語を使いながら、男女の言語的な奥行きと意味的な幅の使い方が違うように、労働者とシステム構築者はそれはそれは理解し合いにくい。かつてジャポニカ学習帳に乗っていた、コウモリの童話は示唆的だし、社会人経験がソーシャルワーカーになるにあたって必要だということも。現場と研究(構築)の橋渡しをする存在がいかに必要であるか。
〜〜〜〜
そうだね、僕が幼くして手術を3回少し経って4回受けたことに意味があるね。
言葉の魔術師とよばれた、ミルトン・エリクソンのような重度な病気ではないけれど、大人たちがどのような心理的な機微を持って行動しているのかわかってしまった。その時に2歳3歳にして15歳くらいの思考が立ち上がったんだった。
食事の時間に目の前のカーテンが閉められて
「(食べられないことは知っているのにそんな無駄なことをして何になるんだ!!その配慮した顔を見て僕が看護婦さんの気持ちを配慮しなきゃならないじゃないか!!!)」
〜〜〜〜
いろんなことを美術館で考えていました。本当に楽しかったです。(^¥^@
美術館に行ってきました⑵
2016年8月27日 散文チケット売り場で、僕は専門学校生として買った。一般人チケットを買っていた友達に、集合時間に遅れたお詫びとして、チケットの差額分でお茶を買おうかと尋ねようかと思ったけれど、尋ねずじまいで終わった。お茶を持参していたから。
ブルーカラーの仕事で、お詫びするときは決まって缶コーヒーやお茶だったりする。時間に遅れたり、軽い頼みごとのお礼として、ご苦労様としての意味がある。ずっとそうした環境にいるから、なにかミスするとお茶買わなきゃと思う。時間に遅れなければいい話なのだけれど、注意欠如ゆえかタイムスケジュールを読み間違える、段取りが下手。
そして美術館の会場に着いてからすぐに考えたことがある。
それは友達についていって、一緒に美術品を見て回るか、一人で黙々と見て回るかということ。一緒に見たいと思った。とても。
けど美術館によく来ているであろう友達と、初めて美術館に来た僕とでは、作品と作品の作られ方、解釈の幅が歴然的とおもった
解説してもらっても、気の抜けた相槌だと申し訳ないなと思って、一人で鑑賞することにした。会場には友達同士で感想を言い合う人達がいたけれど。
個人的な結果として正解だった。
大きな油絵の圧倒的存在感、絵の具の厚みや、印刷物では判別できない色の機微。美術品の中の太陽の位置と時間軸、女性の顔の彫刻やただの車輪。それらを美術館の照明によってまた一つ別の作品として蘇っているような錯覚。油絵を見ながらいつか目や耳にした美術品の感じ方、解釈の仕方。風景構成-バウムテストを記述を思い出して、前面の絵に対して過去はこっちで未来はこっち、対立軸はどこだったろうかと、そのとき持っている全ての知識-情報と解釈を持ち寄って、解釈を解釈して解釈した。
まるで「死に至る病」の冒頭のように。
さらに、美術品は美術品を見ている人も含めて美術品と言われることがある。
認知心理学のデザインなどで語られることは、例えばコップはコップだけど人に使われないとコップの飲み物を口元まで保持するという役割は与えられない。つまり、美術品は観測者がいて初めて成立する。つくづく、読んでいないけれどミードの自我理論がちらつく。この世に対象として存在Sein(する)は、観測者がいなければこの世にないことになる。
...ああそうか、(解釈)芸術家は見てもらうことを前提にした美術品を作ったとして、観測者がいないと美術品自体が無価値-無存在になることを知っている。
だから本を読んでいて孤独を感じるということは、この読んでいる世界が繋がりを持たないんじゃないかって連想されて孤独を感じるのか...。
有用性の射程に入るじゃないか。
ブルーカラーの仕事で、お詫びするときは決まって缶コーヒーやお茶だったりする。時間に遅れたり、軽い頼みごとのお礼として、ご苦労様としての意味がある。ずっとそうした環境にいるから、なにかミスするとお茶買わなきゃと思う。時間に遅れなければいい話なのだけれど、注意欠如ゆえかタイムスケジュールを読み間違える、段取りが下手。
そして美術館の会場に着いてからすぐに考えたことがある。
それは友達についていって、一緒に美術品を見て回るか、一人で黙々と見て回るかということ。一緒に見たいと思った。とても。
けど美術館によく来ているであろう友達と、初めて美術館に来た僕とでは、作品と作品の作られ方、解釈の幅が歴然的とおもった
解説してもらっても、気の抜けた相槌だと申し訳ないなと思って、一人で鑑賞することにした。会場には友達同士で感想を言い合う人達がいたけれど。
個人的な結果として正解だった。
大きな油絵の圧倒的存在感、絵の具の厚みや、印刷物では判別できない色の機微。美術品の中の太陽の位置と時間軸、女性の顔の彫刻やただの車輪。それらを美術館の照明によってまた一つ別の作品として蘇っているような錯覚。油絵を見ながらいつか目や耳にした美術品の感じ方、解釈の仕方。風景構成-バウムテストを記述を思い出して、前面の絵に対して過去はこっちで未来はこっち、対立軸はどこだったろうかと、そのとき持っている全ての知識-情報と解釈を持ち寄って、解釈を解釈して解釈した。
まるで「死に至る病」の冒頭のように。
さらに、美術品は美術品を見ている人も含めて美術品と言われることがある。
認知心理学のデザインなどで語られることは、例えばコップはコップだけど人に使われないとコップの飲み物を口元まで保持するという役割は与えられない。つまり、美術品は観測者がいて初めて成立する。つくづく、読んでいないけれどミードの自我理論がちらつく。この世に対象として存在Sein(する)は、観測者がいなければこの世にないことになる。
...ああそうか、(解釈)芸術家は見てもらうことを前提にした美術品を作ったとして、観測者がいないと美術品自体が無価値-無存在になることを知っている。
だから本を読んでいて孤独を感じるということは、この読んでいる世界が繋がりを持たないんじゃないかって連想されて孤独を感じるのか...。
有用性の射程に入るじゃないか。
美術館に行ってきました⑴
2016年8月27日 散文先週の金曜日に友達に誘われて、9月まで上野にある東京美術館で開催されている、ポンピドゥセンター展に行ってきました。初めての美術館だったのですがとても楽しかったです。これは大前提としてお読み下さい。
(あと纏まりがあるように読めないと思いますけど任せます)
この日は金曜日。
金曜日は仕事が終われば(一応)自由時間にしている日。けどこの2ヶ月ほどばかり前から、仕事が増えて帰宅時間が全体的に遅くなった。それが顕著なのが金曜日で、大手企業の本社と工場を品川区の大井まで収集物を、高速道路でピストン輸送して、さらに地元の福祉移設の収集物を、新たに清掃工場で降ろさなければならない曜日になった。
それまで金曜日と水曜日は12時頃に会社に戻り洗車をして帰れていた。おおよそ疲れていなかった。
ところがアルバイト雇用ながら週5.6日で働くよう(社保も5万ほど支払い)になり、スポット回収やミーティングがルート後に差し込まれることで疲労感は増していった。そうして辞めていく人が多いらしい。
つくづく運転手は大変だ。眼精疲労と事故防止のための認知処理で頭を使って、座りっぱなしだから腰痛に悩まされ血管年齢もあがる。しかも収集物回収の仕事は、本当に綺麗な仕事じゃない。さすがのホッファーも顔をしかめるだろう。
いいことがあるとすれば、道行く人と街の風景を眺めたり、Wi-Fiに接続されたスマホでTEDと、今の所手に入った坂本真綾の全楽曲(201曲)をBluetoothイヤホンで聞くことぐらいだろうか。思案と自己への思いやり、あと信号待ちの1分の間に持ち込んだ文庫本をめくる。スタインベックの「ハツカネズミと人間」を読み終えたところ。
そうした一週間の中で一番大変な日に、行きたかったところに行けるのは嬉しかった。
この日は美術館のあとに読書会が開かれるために、友達は読書会のメンバー全員にゆるく参加希望を提案した。けど案の定、集合時間が終業時間と重なって参加に手を挙げたのは僕だけだった。しかも集合時間に遅れて本当に申し訳なかったです。
美術館に着いて、ダンテの地獄の門をしばらく眺めた。堕天したサタンについて、詳しく30個あらため25個上のクリスチャンに訊いておけばよかった。おおよそ、彼女と話すときは心理・福祉に関してだけど、聖書を通しで読んでいればよかったと常々思う。歴史的な共通言語としての聖書。西洋美術を眺めながらも、また静かに生じた。
(あと纏まりがあるように読めないと思いますけど任せます)
この日は金曜日。
金曜日は仕事が終われば(一応)自由時間にしている日。けどこの2ヶ月ほどばかり前から、仕事が増えて帰宅時間が全体的に遅くなった。それが顕著なのが金曜日で、大手企業の本社と工場を品川区の大井まで収集物を、高速道路でピストン輸送して、さらに地元の福祉移設の収集物を、新たに清掃工場で降ろさなければならない曜日になった。
それまで金曜日と水曜日は12時頃に会社に戻り洗車をして帰れていた。おおよそ疲れていなかった。
ところがアルバイト雇用ながら週5.6日で働くよう(社保も5万ほど支払い)になり、スポット回収やミーティングがルート後に差し込まれることで疲労感は増していった。そうして辞めていく人が多いらしい。
つくづく運転手は大変だ。眼精疲労と事故防止のための認知処理で頭を使って、座りっぱなしだから腰痛に悩まされ血管年齢もあがる。しかも収集物回収の仕事は、本当に綺麗な仕事じゃない。さすがのホッファーも顔をしかめるだろう。
いいことがあるとすれば、道行く人と街の風景を眺めたり、Wi-Fiに接続されたスマホでTEDと、今の所手に入った坂本真綾の全楽曲(201曲)をBluetoothイヤホンで聞くことぐらいだろうか。思案と自己への思いやり、あと信号待ちの1分の間に持ち込んだ文庫本をめくる。スタインベックの「ハツカネズミと人間」を読み終えたところ。
そうした一週間の中で一番大変な日に、行きたかったところに行けるのは嬉しかった。
この日は美術館のあとに読書会が開かれるために、友達は読書会のメンバー全員にゆるく参加希望を提案した。けど案の定、集合時間が終業時間と重なって参加に手を挙げたのは僕だけだった。しかも集合時間に遅れて本当に申し訳なかったです。
美術館に着いて、ダンテの地獄の門をしばらく眺めた。堕天したサタンについて、詳しく30個あらため25個上のクリスチャンに訊いておけばよかった。おおよそ、彼女と話すときは心理・福祉に関してだけど、聖書を通しで読んでいればよかったと常々思う。歴史的な共通言語としての聖書。西洋美術を眺めながらも、また静かに生じた。
自分は孤独だ
そうおもって毎日過ごしてはいないけれど、日々の瞬間で意思とは関係なく、連想的に孤独だと思う瞬間が、これまでにあった。運転手の仕事は孤独で考え事をするのには暇が過ぎる。孤独について考える機会があって、きょうは孤独についてずっと考えていた。
きょうだいが多い家に産まれた。幼い頃は帰って来れば誰かしらいる。そうしたなかで段々ときょうだいが成長して行って、家の合鍵を持つようになった。小学校高学年の頃からそうした生活が始まったように思い出される。
(追記:鍵を忘れることもあって、何時間も母親を待つことがあった。母親が悪かった場合もあって、団地のガスメーターに合鍵を忍ばせていれば、すんなり入れることはあったけれど。それでも、3、4時間待つことはザラにあった。冷たいコンクリートのうえで、膝を抱えて教科書を読む気も、隣の公園でブランコに乗るのも、そうした行動をとらないで、ひたすら母親の帰りを待っていた。あの時、ぼくはやっぱり寂しかったんだと思う)
うえの3人の兄は高校生でどこかに出かけていたし、うるさい中学生の姉も部活で忙しかったのか、帰ってくる時間には合わなくなって行った。
友達はちらほらいたけれど、学校が終われば早足で信号待ちしないような、最適な歩幅で家路に着いた。そして団地の4階までの階段を最適な飛ばし方で駆け上がって、鍵を開ける。鍵を開ける瞬間、ぼくは安堵する。そして玄関を開けてなかに入って、とてもがっかりする。「 誰もいない 」孤独という言葉を知らないころ、孤独を感じていた。
毎日学校は緊張の連続で、クラスメイトからの嫌がらせも先生や友達との関わりに不安を持っていたから、すぐに家に帰りたかった。帰って来ればきょうだいの誰かしらに会うし、母親にも会えるだろうと。けれど、「 誰もいない 」誰もいないからゲーム機に電源を入れて遊ぶ。けれど、このゲームは複数で対戦するゲームで一人プレイは寂しかった。
ぼくは仲間意識や帰属意識を幼稚園からもてなかった。人と繋がれないことから寂しくなって孤独を生んで、孤独な状態が当たり前のようになっていった。皮膚のうえを守ってくれるようなバリアがなくて、不安になるけれど、仕方がないことと決め込んで。
そしてぼくは孤独な人が見分けれられるようになった。それでまた悲しくなる。
孤独な人は「傷つきを訴えることができなかった繊細で優しい人」
他人も自分も傷つけたくなくて、でも訴えることができなくて辛くなる。他人に怒れる時は正当に相手だけが悪い時。理解されたくて相手を説得しようとするけど、うまくいかなくて自己理解を深めるしかない、もしくは社会を滅ぼすかのように説得することに命を燃やす。
自己理解に徹することも他者説得をするのも上手くいかない。
基本的に孤独な人は傷つきを癒そうとしたり、真っ当に傷を処理をして忘却するように向かない。傷つきを無視したり、傷のうえに防具や傷を武器にしたりする。もう、悲しくって見ていられない。傷ついた己を自己成長という規範意識で否定し続ける。そんなの自分に優しくない。
ロゴテラピー(実存主義)も弁証法も、人には優しくない。元気な人にはいいのかもしれないけれど。孤独には論理じゃない、素朴な思いやりという感情が必要なんだ。
そうおもって毎日過ごしてはいないけれど、日々の瞬間で意思とは関係なく、連想的に孤独だと思う瞬間が、これまでにあった。運転手の仕事は孤独で考え事をするのには暇が過ぎる。孤独について考える機会があって、きょうは孤独についてずっと考えていた。
きょうだいが多い家に産まれた。幼い頃は帰って来れば誰かしらいる。そうしたなかで段々ときょうだいが成長して行って、家の合鍵を持つようになった。小学校高学年の頃からそうした生活が始まったように思い出される。
(追記:鍵を忘れることもあって、何時間も母親を待つことがあった。母親が悪かった場合もあって、団地のガスメーターに合鍵を忍ばせていれば、すんなり入れることはあったけれど。それでも、3、4時間待つことはザラにあった。冷たいコンクリートのうえで、膝を抱えて教科書を読む気も、隣の公園でブランコに乗るのも、そうした行動をとらないで、ひたすら母親の帰りを待っていた。あの時、ぼくはやっぱり寂しかったんだと思う)
うえの3人の兄は高校生でどこかに出かけていたし、うるさい中学生の姉も部活で忙しかったのか、帰ってくる時間には合わなくなって行った。
友達はちらほらいたけれど、学校が終われば早足で信号待ちしないような、最適な歩幅で家路に着いた。そして団地の4階までの階段を最適な飛ばし方で駆け上がって、鍵を開ける。鍵を開ける瞬間、ぼくは安堵する。そして玄関を開けてなかに入って、とてもがっかりする。「 誰もいない 」孤独という言葉を知らないころ、孤独を感じていた。
毎日学校は緊張の連続で、クラスメイトからの嫌がらせも先生や友達との関わりに不安を持っていたから、すぐに家に帰りたかった。帰って来ればきょうだいの誰かしらに会うし、母親にも会えるだろうと。けれど、「 誰もいない 」誰もいないからゲーム機に電源を入れて遊ぶ。けれど、このゲームは複数で対戦するゲームで一人プレイは寂しかった。
ぼくは仲間意識や帰属意識を幼稚園からもてなかった。人と繋がれないことから寂しくなって孤独を生んで、孤独な状態が当たり前のようになっていった。皮膚のうえを守ってくれるようなバリアがなくて、不安になるけれど、仕方がないことと決め込んで。
そしてぼくは孤独な人が見分けれられるようになった。それでまた悲しくなる。
孤独な人は「傷つきを訴えることができなかった繊細で優しい人」
他人も自分も傷つけたくなくて、でも訴えることができなくて辛くなる。他人に怒れる時は正当に相手だけが悪い時。理解されたくて相手を説得しようとするけど、うまくいかなくて自己理解を深めるしかない、もしくは社会を滅ぼすかのように説得することに命を燃やす。
自己理解に徹することも他者説得をするのも上手くいかない。
基本的に孤独な人は傷つきを癒そうとしたり、真っ当に傷を処理をして忘却するように向かない。傷つきを無視したり、傷のうえに防具や傷を武器にしたりする。もう、悲しくって見ていられない。傷ついた己を自己成長という規範意識で否定し続ける。そんなの自分に優しくない。
ロゴテラピー(実存主義)も弁証法も、人には優しくない。元気な人にはいいのかもしれないけれど。孤独には論理じゃない、素朴な思いやりという感情が必要なんだ。
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