12/4日自分の誕生日にお隣は所沢市の東京都清瀬市まで絵を描きに行ってきました。

芸術家 花岡はなさんのワークショップです!!
自分の誕生日で日曜日なのに朝から仕事かよと思いながら、車を走らせました!
朝の表参道や渋谷は誰もいないので、不思議な感じがしますね。まぁ、若者なのに神保町や秋葉原に上野しか行かない、僕にとって人でごった返した渋谷や表参道には馴染みがないので、いてもいなくても一緒なんですけれどね。こういうことを猫の尻尾っていうのしってましたか?ふふ

(そうは言いつつも歩きたいなぁと思ってる素直じゃない思春期)

そんな青いネズミの最近の日曜日の楽しみは、永代橋付近にある回収先の前にある7&11の店長さんに「お疲れ様です、チョコにちょっぴりシール貼っちゃいました^^」って聴くのが、頑張ったなぁっと感じられて幸せですwww

さてと、清瀬市へは初めて行きました。
お隣の東久留米には行ったことがあるのですけれど、まさか奥に行くとは思いませんでした。

アートワークに参加した理由は、芸術家に会いたかったのと描きたい絵があったからです。28歳の誕生日を迎えて、ようやく思春期になれた気がします。過去様々な分岐的が考えられるけれど、たぶん14歳のときの数学の時間が分岐点だったと思います。したがって、その時の風景や心象を絵にしたかったんです。確かにかけるクレヨンで。
サクサクとかけた気がします。楽しく描きながら自己紹介をして、参加されている人は少なかったのですが、皆さんいろいろな経験をしているんだなともいました。大なり小なり傷つきに関しても語っていました。

もっと書こうかなっと思ったけれど、2枚書いたところで疲れや頭が重いなどの理由が噴出してきて、3枚でお腹いっぱいになってしまいました。クレヨンを手にした時にシュタイナー教育のことを思い出して、没頭して描くことを出し切ることを意識したけれどできなかった。それほどに疲れていたから。程なくして出来上がった絵を他のワークショップでテーブルを作っている、熱い芸術家に見せたら「出し切れた?」と訊ねられて”やっぱりここはそういうところだな”と思いました。

それから時間が経ち、鍋を作るのに駅前まで買い物に行き荷物持ちになって、日本酒とビールを買い込み、自分の誕生日にもらった蒼天伝というビバ⭐︎厨二病ネーミングな日本酒と瓶ビールを持ち寄り晩御飯になりました。帰宅に1時間半以上かかるのに22:00頃までガァーガァー喋り通しました

芸術家「絵を描いている時はクールだったのに、飲むとしゃべるね!驚き」
その時の様子はまるで講演会のようでした。普段運転手をしていて、考えたり発見をしたことを喋る場がないために、溜まっていたからでしょう。そんなに多く酒を飲んだわけじゃないのに酔っ払ってました。

帰宅の際には玄関で熱い芸術家から握手と抱擁をしてもらいゆっくりと帰りました。

誕生日のお祝いとしてもらった絵と描いた絵は額縁に入れて飾ってあります。
ふとした時に眺めています。また8月に美術館に行かなかったらアートワークに参加していないと思います。あそこでじっくりと絵や作品を見てからは、絵や構造物をじっくり観察するようになりました。「コンビニ人間」という小説の表紙は面白いなと眺めてます。
笑いの波。
映画パッチアダムスを観てから、有名人の先生がアントニオ猪木かアントキノイノキさんのモノマネで、認知行動療法の元気ですかと尋ねる場合…「なんかしてますカァー?!」は個人的に大受けした。あれは鉄板ネタだと思う。

さて、前回のアンケートに端的に溜め込んだ怒りをどのようにしてら手放せますかと
質問したら、最初に質疑してくれていたようで本当に嬉しかった。…けど、遅刻したw 課題本の遅刻する男性を思いながら。

                【怒りは恐怖と同じく、記憶に残りやすい】

そのために怒りは生存戦略として有効だったことをお聞きして、驚きました。
ただ、シアター&スポットライト理論(意識を感情に焦点化すると思考が生じる)を展開され、怒りが生じていることよりも大切なことは何か?という問いをしてみると、怒りの感情に焦点化しないで人生にとって、今を生きている自分にとって大切なものを考えるようになるとおっしゃられていて、笑ってしまいました。また、怒りは生存や生殖に邪魔な存在を排除するために必要だった。今でもそうですね!
けれど、現代社会で怒りを表現することは人間関係を壊すことになりかねないので、怒りの管理が必要。それに変わるのが、スポーツや芸術だったりする。

シアター&スポットライト理論(以下SS理論)を頭の中で展開させると、今まで抱き続けてきた憎しみは一体何だったのだろうかとおもいます。(このワークショップの数日前に憎しみに穴を開けてきたので、痛みは伴わなかった)
SS理論を使った療法は強い情動によって特定の意識を焦点化している課題を、意識して焦点化している特定の意識(感情)をずらして、辛い課題より楽な課題設定を促す。つまり、考えていることから良い現実的な行動に向かわせる。
(うわぁ、こなれてない。。。あってるよねぇう????)

ネガティブな考え方の螺旋にはまってしまったら、一度その考え方を中断してみて別の事を考えてみる。そして、そのネガティブはいま価値があるものなのか考えてみる。ここテストに出ます^^

そうすることによって....
「嫌な気分はいつでもリセットできる」
何故なら?
「嫌な気分になる」≠「イレギュラーな出来事」X
「何も気分をリセットする行動をしない」X
行動が変わればリセットできる!!
となり...

杉山教授「気分は私たちのもの」(さらっとかっこいいことを///
となります!

さて問題行動からよい行動へ移る時に人は抵抗を示します。
それは人は新しい環境に強い気持ちが浮かぶからです。ちょっと困難なのですが、そういう困難は困難で困難なんだという、かのキルケゴールのようなめんどくさいことを考えるのはやめましょう。
苦手な事は習慣になれば気にならなくなります。嫌な気持ちを打ち消したりなんでもなくせる、ご褒美を用意して苦手な事に挑戦してみる事が大事です。

ちなみに村上は、小さい時に野菜の苦味が苦手で、お肉や肉っぽい味の食べ物と一緒に野菜を食べて、用意してくれた夕飯を食べたものです。つまり、苦手(苦味)を打ち消せればお腹(習慣化)に入ってしまう。(ステーキか生姜焼きかがなくなった時に、父親からキャベツの芯を食べろと言われた時は最高に苦しかったです(^^怒)
ネガティブ思考の方程式は掛け算だった 脳が作り出す出来事
ネガティブ思考の方程式は掛け算だった 脳が作り出す出来事
9/28水曜日にみなとみらい、神奈川大学ポートスクエアに行きました。

初回レポートになります。
基本的に杉山教授が課題図書を参考にして、レジュメに受講生がそれぞれ書き込みをする座学になりました。

19:30から開始とあったので10分前に入場したら、教授は自己紹介をされていて、これは19時開場と同時に着席していないといけなかったのだなと一人で慌てた。

とりあえず教授の髪型がSNSと違うことに驚く

開場を見回してみると、ざっと60名は座れそうな部屋で、講義には30名強の受講者が座っていました。1/3は神奈川大学もしくは教授の関係者ということ、残りは一般市民と心理学に興味がある人たちという内訳でした。
(小ネタ 一番前の席に座る人は成績があまり良くない論文があったと思うから、なるたけ後ろの席に座るようにするようになりました。大学を卒業してからですが。)

講義は前述通り、課題図書(以下教科書)を参考しながらパワーポイントでレジュメを解説する形になりました。教科書を抜粋してきただけあって、レジュメの方がポイントを押さえていて、キーワードを書き込みやすく、6枚すべてに書き込みました。
最後のネガティブワークシートはコピーして使いまわしたかったので、5枚目の裏におなじようなシートを作成しました。

  以下レジュメの抜粋(と教授のコメント)

・人の目は気にするほどのものではない
・私は人から不審に思われない程度に身だしなみを揃えている
・人はそこそこ私を厚意的にみるものだ
・私の行動範囲では、私は概ね歓迎されている
「人は好まれている場所や空間に行きます、嫌いだったり違うと思ったらいきません」

「対人不安」
「人は自分のカーストを低く評価してバカにする」

教授「これに当てはまらなければ対人不安じゃありません」

・人は私次第で私を大事にしてくれる
・人はそう簡単に私を見限るものではない
・私に味方してくれる人もいる
・私は怒られるようなことはしないように努めている
・自分には人並みに価値がある

抑うつ思考

ネガティブを超えたポジティブの人は私次第のフレーズが入る
納得です♩

・みんな、それぞれの事情があるので対象の行き違いは問題ない
・人を信じても良い時もあると思う
・悪意を持って意図的に人を傷つける人は決して対数はではない
・私がほっといて欲しい時はほとんどの人は放っといてくれる
妄想観念
「自分が悪意の標的になっている」

上記のものはネガティブ思考と連想で、ネガティブ思考の仕組みは以下の通り
「きっかけor連想」×「ネガティブ認知」×「ネガティブ行動」×「ネガティブ感情」
教授「かけ算となっているため、一つをゼロにすれば仕組みは崩壊する」

つまり自分が取り組みやすいネガティブ項目を打ち消したりなくせれば、少なくてもネガティブ思考や気分の落ち込みはしにくくなる。立て続けに教授は連想は意思や時間に関係なく、脳が作り出しているものと解説をする。したがって、沸き起こる自動思考は自分の制御可能な範疇ではなく、自由意志があるかどうかの哲学的な問いは想起されて、それに対してスポットライトを無意識に当てて考えているのが正しい。さらに光を当てて考えることの営みは哲学的と言えるのかもしれない。
-----------
人に自由意志などないと分かっても、人を好きになってしまうのに理由はない
【誠実とはおおよそ、綺麗に嘘がつけることである】
人に自由意志があるのかという問いは、つまるところ「私はそう思う」に尽きる。
これは論理的な問いで答えられるものではなくて、私という一個の人間が思うという感情から発せられるものだと主張します。

何故なら、例えば現時点で分かっている主張を吟味してみると、これは中庸でそれは異端で、どう考えても正しいのかおかしいのかといった整合性が見つかるはず。
小学校3年生くらいの体育館で校長先生の朝礼を聞きながら思ったのは、どうして人はそれはおかしい(僕はおかしいと思っている)と分かりながらも、その決断をするのかという問いでした。最近、一つの結論に達しました。異論でも社会的に成功したいからです。特に政治屋さんはそうです、言い続ければいいのですから。自分が志向するのは政治家ですけれでも。

統計学で正しさが証明されても、それは本当であるのかという問いは尽きない。
その上で囲まれた情報が統計者の言語能力によって証明(レポート)が変化するのだから、いったい正しさとはなんなのか。それは間違っていてもいいつづけることに他ならないと思うようになりました。

例えば、興味がなくてもあなたが好きですといい続けたとして
人は忘却する動物なので、興味がなかったという記憶は薄れていく
特に辛かったり痛い経験は時間とともに忘れていく
幸せな記憶は定着しにくいけれど、人はふとしたことで思い出す
味と雰囲気は誰にも逆らえず、そのささやかな幸福に満たされるもの

しょうがないじゃないですか!一目惚れするのは孤独な証拠で、その人を見ているわけじゃないのに、その人が好きになってしまったと脳が欲してしまったんです。
だけど、その人を本当に好きになるにはある種の理性的な面が必要なんですって。身体よりも精神に、心理的なものへと惚れる必要があるんです。
それに興味を持ってもらうには、普段生活で注目している好きなことから
こちらへ眼差しをこちらへ向けてもらう必要がある。

人が人を好きになる。間違いであっても好きと言い続けるのは
嘘でも本当になるって知っているからなんじゃないですか?
ーーーーーーーー
ネガティブ感情とは
「嫌がる感情」と「求める感情」
心は「嫌がれば嫌がるほどに嫌なことに向かっていく」
「求めれば求めるほどに、手に入らないものに向かっていく」
つまり不倫ですね(ゲスの極み村上

要約すると「フュージョン(巻き込まれ)」:心が感情に乗っ取られた状態

次回はフュージョンを解いていきます(多分