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発達障害者が嘆く薬物療法によって得られた自分とそれまでの自分のどちらが本当の自分なのかという問いは、どちらも自分であると結論づけた。
社会生活を送っていく上で薬物-対処療法は有効であるが、この問い自体は精神性の課題であって本当の自分という課題ではないからだ。
本当の自分という薬物療法よりも目に見えにくい課題を作ることで薬物療法によって生じた社会生活を送れるようになったことでの新たな依存先を設定しているかのように見える。
また本当の自分は自己と環境の限界性の先にあるか、もしくはなんでも実行可能な存在になるかのどちらかである。不幸や屈辱を味わっているのも有能さや幸福に照らされているのも自分。お腹が減っている時と満たされている時の自己は連続体の自分である。人は労働をし食事をとり友人と議論し休みを取る、この細かな一日のなかで本当の自分といえるのだろうか。移り変わっていく人間存在に固定した本当の自分は見出すことはできない。しかしカントは「最も平安なそして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である」と述べた。あるいっときの瞬間、社会生活から解放された時に自分に戻る。それが本当の自分と呼べるのではないだろうか。
社会生活を送っていく上で薬物-対処療法は有効であるが、この問い自体は精神性の課題であって本当の自分という課題ではないからだ。
本当の自分という薬物療法よりも目に見えにくい課題を作ることで薬物療法によって生じた社会生活を送れるようになったことでの新たな依存先を設定しているかのように見える。
また本当の自分は自己と環境の限界性の先にあるか、もしくはなんでも実行可能な存在になるかのどちらかである。不幸や屈辱を味わっているのも有能さや幸福に照らされているのも自分。お腹が減っている時と満たされている時の自己は連続体の自分である。人は労働をし食事をとり友人と議論し休みを取る、この細かな一日のなかで本当の自分といえるのだろうか。移り変わっていく人間存在に固定した本当の自分は見出すことはできない。しかしカントは「最も平安なそして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である」と述べた。あるいっときの瞬間、社会生活から解放された時に自分に戻る。それが本当の自分と呼べるのではないだろうか。
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