近況

2018年3月26日 エッセイ
ぼちぼち生きてます。
ちょっと書きたくなったので、おヒマでしたら読んでってください。

さて昨年の8月から某大学院の学生相談室でカウンセリングを受けています。カウンセラーはM2の学生さんで、今年度卒業されました。引き続き来年度も面接を受け持ってくれるようです。
カウンセリングを受けようと思ったのは自分の生育歴の洗い出しと発達検査、ならびに主体性の獲得を目指したものです。あと、いろんなことが辛かったのもあります。
面接を受けるまでに何人かの専門職から面接を受けてみることを勧められてきました。友達にも勧められていたし、大学時代から、いつかは受けたいなと思っていたところでした。

それで少しずつ生育歴を取っていって、主訴の発達検査を受けられたのは年末に近づいた頃。それまでの時間とお金を考えれば専門のクリニックの方が節約できたのではという思いも芽生えてきました。しかし、一方で学生相談室という運営上、基本的にカウンセラーは学生なので技術的にはプロフェッショナルとはいえない。面接中に歯がゆさを感じることがあります。この言葉は伝わったのだろうかなど。

いっとき、勧めてくれた友達から「そこの学生相談室をやめて他のところへ行ったら」どうかと提案されました。自分が勧めたところにもかかわらず、主訴への進捗は芳しくないことからでした。
けど、その発言は私自身を見ていないと思えた。それは主訴だけしか注目していないところだった。主訴だけを目的にするなら学生相談室は選ばない。金銭的に余裕がないとしても専門のクリニックを選ぶ。少なくても8回も面接をしていて治療関係が出来つつあるのに、場所や人を変えるのは戦略的ではない。
あと、学生相談室で良かったという点が面接の中で感じたことがある。

プロと面接したら体が持たない
学生である立場と社会人学生である立場を利用できないか
同年代から自分を見たらどう見えるのか興味がある
学生カウンセラーと共に成長ができるんじゃないか

こういったことを面接の中で考えが芽生えてきた。だから友達の提案を聴きながらさらりと身をかわしていたのはこうした理由があったから。



面接をうけて発達検査と性格検査をやった感想は、カウンセラーと一緒に自分を点検できたのはすごく良かった。自己覚知をしなさいと専門職に言われてから、自分のことを知ろうとしたし、それよりも前よりもずっとまえからそうしてきて、やって自分を知ることが形になった気がして気分がいい。ギリシャ哲学において精神は流動的ではなくて、形とはよくいったものだと思った。
 僕は小学生時代から定時制時代と、同年代と切磋琢磨する機会を持てずに生活してきた。だから、決めつけであっても「ひろはこうだよね」「ひろはあんがいずぼら」「ひろは優しい人」「寂しがりやかもね」とか、自分を映す様々な鏡の枚数が少なくて偏りが強かった。
 自分のことを自分が知らないで生活してきて、何が得意で何が好きで嫌いなのか、漠然としていたし、得意でも不得意もわからないから全部努力をして、わからないから尋ねられないから努力をして失敗して、ちいさな石ころにつまづいて大怪我して、こころが磨耗して荒んでいった。崩れそうなほどに。


それでも、けっして張り付いた笑顔になった覚えはない。
無論、人の表情や雰囲気を読み解ける人なら、僕の生育歴を類推できるでしょう。

今日はこの辺でおしまいにします。
ちなみにこうした文章を公開しているからといって悩み相談や助けようとしないでください。はっきりと迷惑です。

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