下北沢まで「わたしの、領分」を観劇してきた。
下北沢に行くのも初めてだし、大人になって演劇を観に行くのも初めてだった。

この劇の存在を知ったのはSNSで流れてきて興味を持った。理由は自分が自分のことを知らなくて、それでは相手のこともわからないのではないかと思ったからだ。他者を大事にしようとしつつも、どこか自分本意だったのではないかという反省も込めて。

https://watashi-no-ryobun.themedia.jp

劇を見終えて、楽しかった。見えないバットで頭を殴られて、言葉にできない感情を持ち、知覚できない怒りをまとったくらいだ。演劇の最中に何度も、苦笑した。それぞれの役者が演じている登場人物の主張や悲しみと怒り、きっとそれに至るであろう背景を想像して。

発達障害の子どもとその養育者の葛藤、それに対して無力な新人カウンセラーの専門的な態度に憤り激昂する両親。こどもの存在は無視をされ、子どもの特性や性格に無理解な親たち。責められ傷つく新人カウンセラーもまた、流産を経験して悩み苦しんでいた、彼女を支える夫を責めながら、夫婦は共に苦しんでいた。

一つのテーマだけでも一本の話を作れそうなのに、多重にも幾重にも日常的に起こっていることを一つの小さな劇場で表現して見せたのは、脚本家が天才で揃った役者がいたからだと思う。劇場の特性を活かして、主観席と客観席を作り、見ている位置によって観客の感想が違って、さらに観客自身の価値観も違うから、誰一人として同じ劇を見ているわけではない。「認識の齟齬と軋轢」人の認識の仕方と他者と自分を分け隔てる境界線とラベルづけをしないといけない現代日本人。受け入れるとは一体なんだろうか?

理解することと理解されること、受け入れられない理由は一体どんなことなのか。

最後、カウンセラーは自分を責める親に叫ぶ。「断定することがどんなに気持ちが良いことか」と。
これは、親がこどもの障害や生き方を決められたら親は安堵し、カウンセラーは決めつけて親やこどもに指示していれば本当に楽なのと、自分から見た他人がきっとこうであることを勝手にできたら、なんて楽なのだろうということを指している。
しかも、専門職の人たちは専門性を持っていない人たちに一向に理解されない。まるで「使い捨てのラップ」の様相だ。

ちょっと書ききれない。また観たい作品でした。

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