(この記事は考えるページなので、楽しさよりも考えることを主眼にしています)
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接骨院のイーストさんからの紹介で鑑賞してみることにしました。

名作と呼ばれる、一つのアイコンとして成立した映画になります。
おおまかに物語は近未来、全てが統制された世の中で、主人公と仲間の少年たちが暴力の限りを働き、主人公だけが社会的制裁を受けるお話です

中身は芸術と暴力と性暴力。そして極限化された社会的侵害性のパレードです。

主人公は暴力を働く時にベートーベンの第九をかけます。
忍び込んだ先で性暴力を働き、第九をかけます。ここがミソです。
主人公は他の事件で殺人をし、仲間からはめられて警察に捕まります。

聖書を引用できる模範的な囚人となりますが、見破られてしまいます。
しかし、ある治療を受けることによって、終身刑を終了させることができると知り受けます。その時に、暴力と性暴力の映画を見せられるのですが、そこには第九がかかっていて、治療には苦痛が伴い第九を聞くと吐き気や希死念慮が芽生える条件付けされました。
主人公は出所して家族の元に帰るのですが、両親の元には息子同然の下宿人がいて、追い出されてしまいます。家を出ることを決めたのは主人公なのですけれど。

家を出てから災難が続きます。
仲間たちとリンチをした浮浪者と会い、浮浪者たちからリンチを受けることになり、仲裁にはいった警察官たちは、過去の仲間たち。就職する年齢に達したから、暴力はやめて警察官になった。そういいつつ、主人公をリンチします。命だけは助かり、朦朧としながらある家にたどり着くと、その家は過去、性暴力を振るった家でした。

妻は性暴力によって自殺をし、夫は車椅子生活。
夫は主人公に復讐をし、さらに主人公を使って治療は非人道的であると政府批判の駒にします。

主人公は夫の策略によって自殺をして未遂に終わります。
だいたい話してしまいましたが、ぜひご鑑賞ください。

感想は侵害性を描ききっていると思います。
個人的な暴力は人を殺すことになり、政府が主人公におこなった社会的治療は主人公を、自由意志をもたない、刺激に反応する動物に成り立たせ、社会不安を引き起こす。
誰が見ても圧倒されると思いますけど、心理や福祉の人間が見ると一層、己の中の暴力性に吐き気を覚えることでしょう。それがお前なんだって。

さて、作品としては、紛れもなく芸術作品だと思います。作品とは関係ないのですが比喩として精神科医が、治療にある暴力を浄化に転換させるのに、必要悪として他人をこき下ろすかのように、芸術に含まれている性暴力と暴力を正当化し、観るもの触れるものを殴りつける。そうした作品です。

なので、およそ正義とは綺麗だと思い込んでいる暴力にすぎない。
誠実さとは綺麗に嘘をつけることと同じですね。
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 【侵害性】

これは生ける人間が人間の中で生きているかぎり持続する状態。
人は一人では生きていけないけど、資源がおおくあれば生きられてしまう。
こと、親や恋人から愛(資源)を奪い合うのは、生きていくのに必要で満たそうとしても満たされないから。そうして侵害性が継続してしまう。侵害性には連帯と相互共助が付随している。じゃあ侵害性はどこまで暴力的でどのようにしたらなくすことができるのだろうか?よい共助とはどうしたらよいのか?

つまるところ、侵害性を感じないこと。強くなること。ディスコミュニケーションを減らし、ニーズを満たすことなんだと思う。これを読んでいるあなたの思考や海馬に...
「私は侵害性を発揮させている!」という悪意や敵意をなくすこと。(そんなつもりはない
でも、悪意や敵意ってどこから生まれるんだ?命や自己保存なんじゃないか?
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ひとつ酷い思い出がある。
払拭したいけど払拭されることは二度とないと思ってる。

過去に一人だけ女の人と付きあったことがある。
彼女はいろんなことやものを抱えていて、苦しんでいました。
僕も憎しみを抱えて苦しかったから、そうした共通点で付き合いが始まりました。

酷い思い出は破局の電話の時に「あなたが私のストレッサーだっ!!」と言われたことです。
心底落ち込みました。今でも思い出すたびに落ち込みます。数ヶ月経って電話をした時に発言に対して謝罪があったんですけど、払拭されませんでした。自分が相手のためになると思った行動がそんなつもりはないのに侵害的で暴力だった。モラルハラスメントに他ならないと。自分でラベル付けしてしまったんです。

人間不信にはならなかったけど、自分の行動や発言力を大きく削ぐ形になり、持続性を持っています。辛いです。人が一人幸せになっていく過程で自己主張しなければならない。「人を傷つけて、自分が傷つくことにYesという」これを乗り越えないかぎり、幸せにはなれない。つくづく、主張しなければならない時期に主張することを行えなかったと落胆します。それを選ばされたとしても選んだ自分に対しても。

あと付随して、「理解しなければならない病」になっています。
このモラルハラスメントを乗り越えらなければならない強迫的な症状は、一般生活において、知らなくても良いことの権利を放棄し、他者への共感性を磨き続けて自己を傷つける症候群。たぶん、いや絶対に臨床家の人は必ず陥る症候群だと思います。

症候群といっても、日常生活で他害するわけじゃないので安心してください。
(じゃあ知らない

皮肉なのは人が楽しいと思うことは自己主張や侵害性、暴力的な何か。
人は他人に共感性を求めるけれど、己の感性は磨かない。「自分の感性くらい自分で磨けよ大馬鹿ものよ」この詩は本当に大っ嫌いだ。

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