先週、いつものように駅に着くのが遅れて電車に乗った。
月1あるスクーリングに向かうためだ。身体はなんとなく重い。

席は空いていない。けど、少ししたら座れたから助かった。
そこへ60代だろうか、かしましな女性3人組がやってきて、世間話をしている。

どうやら眼の前に立っている人は苦労人らしい。
彼女の脇を固める友達が家事や姑さんとの介護などのことを褒めちぎっている。
けど、褒められても嬉しくないように返事をしている。たぶん、本当は嬉しいけれど彼女は嬉しいことを嬉しいと表現しにくい生き方をしてきたのだろうと悟った。

なぜならイトコ2人と4人きょうだい、併せて5番目として育ってきたからと語っていた。ずっと、ずっと、彼女はこのことを人生で何度も語ってきたのだろう。
それは若輩者ながらわかる。心理を学ぶものがわかるとは、なかなか言いにくいのだけれど。
直感した。僕と彼女は同じなのだと。

ランドセルを背負うころには兄や姉は自分の世界があって、自分との摩擦がない。
兄や姉をあこがれるばかりで、単純にその年齢に育てば憧れる容姿や能力だって手に入るはず。けれど、そんなことは少女にはわからない。

家族がたくさんいるのに、じぶんだけ宙ぶらりん...のような気がする。
「しっかりしなきゃ」と幼い心は決心をしただろう。
家事や料理や服や色彩、礼儀作法のあらゆる身につけるべきと思えることの一切。

座りながら耳の神経は、いつの日かの少女に向いていた。それは真剣にうなづきながら。どなたかわからないけれど、あなたの人生によって、僕は救われた。

同じように悩み、悩み抜いた女性がいたことに。

ああ、僕の悩みは"まだ"学習曲線上にあるのだと、
教えてくれたことに本当にありがとうございました。
それと下車の時に道を開けたくださった時に
「まぁ素敵な笑顔」とお誉めいただいたことも嬉しく思います。

この苦しみが正しいことを、このままちゃんと生きることを確認できました。

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