中学生の頃から街ゆく人々の靴を見ている。
靴を見ればその人の大体がわかると聞いたからだ。人のどこかを見てその人がわかるといった本を買っていたような気がする。この辺は立正大学の斉藤勇さんが図解雑学『外見心理学』で纏められているので良かったらどうぞ。
実際のところ、分かる(見立て)ことは
・人の目を気にしているか
・経済的な状況予想
・美的センス(色彩・靴の形・衣服)
・ここ最近の健康度
・街に慣れているか
・色彩心理に基づいた性格予想
ざっとこんなもんだと思います。
見立てとしたのは、確かめられていないからです。これを個人的に調査できたら
「おまえはもう、見抜かれている」とか一般的な厨二病セリフを言えそうな気がします。ちなみにブログは文字の色やフォント変更、写真も3枚まで載っけられます。
さて靴磨き職人は、このサラリーマンは出世するかどうか分かるそうです。
革靴のヘタリや折れやキズに磨かれているかどうか。靴の状態から、たぶん歩き方から判断しているのだと思います。女性が男性の手と爪を見るようなものでしょう。清潔感は生き方に反映されていると持論を主張します。うわっ、主張しながら出来てないやんw
毎回人に会うたびに爪の手入れしてなくて鬱々とするわーまあいいやぁ(秋葉原のアトレ2Fのメンズネイル行ってこようかなぁ、近所は3.5kでだしなあ
自分は自分が”わかる範囲で”その空間の人々や前にあった時と違うところを語らないまでも、見ています。褒める技術ってここで表現するから上手になるんだろうなぁと思いながら。そのくせ、見られているという意識がかけているのがバカだなと思うんですけど。ぼくは客体の意識が薄いらしい。
あっ、ここdiarynoteはシンプルな日記として主に世界的カードゲーム
「マジック・ザ・ギャザリング」通称MTG プレイヤーの巣窟になっています。
あと言論統制がないと言って過言じゃないので、暴論や悲劇のヒロイン・プリンスも結構いたり、日常をかいている平和な人が少ない印象です。相互リンクしている人しか見れない秘密日記もあるので、秘密になんか書いてあるだろーと疑い始めると、精神的な健康度が削がれてしまうので考えないようにしましょう。
なお、よくサーバーが落ちてて閲覧と編集ができなくなるので、見れない時は再度お越しください。
靴のソールがどっちに削れているかで、身体に靴があっているのか、歩き方と姿勢。
腰痛や下肢の疲れ具合を予想しています。歩き方でなんちゃらのデューク更家さんなんか、見りゃわかるらしい。ちなみに靴にフェティッシュは生じさせていないので安心してください。両手で後ろ髪をかき上げる様は、裸を見てしまったような罪悪感と気恥ずかしさから目を逸らします。
単純に、好きと言えばいいのにwややこしい書き方してなぁっっw
手が隠れる=無防備な姿勢になる=特定の思考が触発される=キャー///
(ミロのビーナスに腕があったら、腕を想像する芸術としてなりたたなくって、人は腕や手にいろんな身体的・意味を込めている。手は人!!といっても過言じゃないし、単純に手や腕は攻撃と防御に使えるため、それが隠れるということは無防備になることを人間の無意識は知っている。普段は社会的規範から立ち上がらない、侵害性が立ち上ってきて、攻撃性に転化できないから自分の心にとどまる、萌え♪になるんでしょうね。切なさと同様な原理でしょう。
寂しいことを寂しいって言えたら寂しくなくなるんです)
最近人工知能の記事を読んでいると、小説『空の境界』がちらちらと連想されます。
かっこいい厨二病の奈須きのこが描くこの世界は、哲学的な問答と心理学的なワードがあちこち出てきたりして面白いです。ユング心理学がベースなのかなって思います。
特に人工知能と関連してああこれはって思ったのは、蒼崎橙子がアルバとアラヤに殺されてアルバの前に再登場したところ。殺した橙子が実は人形で、人形は橙子と寸分違わずに作られてて、自分と同じ人形を作れば自分が死んでも、この世界と私という成長し続ける存在は変わらないところが思い浮かぶ。
「これがあれば私は必要ないんじゃないかって」
社会にとって同じ性質の存在が活動していれば、私という存在がなくなっても困らない。双子は遺伝子が一緒だけど、生活を一緒にしていれば違う思考判断になるから、別の存在ということが言える。けど、生き別れていると差異を作る必要がないから同じと言えるだろう。
まだ電脳化されない世にとって、身体は固有性を保持している。
身体(脳)から作られる精神・心も固有であり続ける。そう思うと、目の前の人物の存在は非常にかけがえのない現象で、差別的な相対的価値というある種の規範が根底から揺らぐ。主人公の名前が両儀ってのもね!
精神よりも大事なのは身体です。身体がなければ精神活動が出来ないから、心理療法よりも森田療法のような身体を休ませる技術が好きです。精神疾患になるのも浮腫んで太るのも、過食も拒食も睡眠不足からといっても過言じゃないと思います。
なので、マッサージを受けるのもするのも好きです。接骨院に通い続けて1年くらいになるので、座りっぱなしの運転手やオフィスワーカー、自転車をする人がどこが痛くなりやすいのか知っています。腕のいい、博識な先生に毎回いじめられています。あんまりにもなので「いじわるだっ(ぐすん」とこぼしてしまいました。決して、犬な男子じゃないです。
ああ、僕は人が喜んでいる姿や笑顔が見たくって、生きているんだなと思います。
プレゼント魔じゃないけど、人に何かあげたくなる。これは母方祖母の性格的傾向なんだろうなって思ったり、さみしがり屋さんからきてるんだろうと思ったり。
外で働くよりも専業主夫の方が合ってるんじゃないかと、割と真剣に考えたりします。生まれてきた性別間違えたかな?まぁ、心理的両性具有アンドロジニー(僕の言語処理は男性で感じ方は女性的なみたいな)だし、いろんなこと連想するよね。
靴を見ればその人の大体がわかると聞いたからだ。人のどこかを見てその人がわかるといった本を買っていたような気がする。この辺は立正大学の斉藤勇さんが図解雑学『外見心理学』で纏められているので良かったらどうぞ。
実際のところ、分かる(見立て)ことは
・人の目を気にしているか
・経済的な状況予想
・美的センス(色彩・靴の形・衣服)
・ここ最近の健康度
・街に慣れているか
・色彩心理に基づいた性格予想
ざっとこんなもんだと思います。
見立てとしたのは、確かめられていないからです。これを個人的に調査できたら
「おまえはもう、見抜かれている」とか一般的な厨二病セリフを言えそうな気がします。ちなみにブログは文字の色やフォント変更、写真も3枚まで載っけられます。
さて靴磨き職人は、このサラリーマンは出世するかどうか分かるそうです。
革靴のヘタリや折れやキズに磨かれているかどうか。靴の状態から、たぶん歩き方から判断しているのだと思います。女性が男性の手と爪を見るようなものでしょう。清潔感は生き方に反映されていると持論を主張します。うわっ、主張しながら出来てないやんw
毎回人に会うたびに爪の手入れしてなくて鬱々とするわーまあいいやぁ(秋葉原のアトレ2Fのメンズネイル行ってこようかなぁ、近所は3.5kでだしなあ
自分は自分が”わかる範囲で”その空間の人々や前にあった時と違うところを語らないまでも、見ています。褒める技術ってここで表現するから上手になるんだろうなぁと思いながら。そのくせ、見られているという意識がかけているのがバカだなと思うんですけど。ぼくは客体の意識が薄いらしい。
あっ、ここdiarynoteはシンプルな日記として主に世界的カードゲーム
「マジック・ザ・ギャザリング」通称MTG プレイヤーの巣窟になっています。
あと言論統制がないと言って過言じゃないので、暴論や悲劇のヒロイン・プリンスも結構いたり、日常をかいている平和な人が少ない印象です。相互リンクしている人しか見れない秘密日記もあるので、秘密になんか書いてあるだろーと疑い始めると、精神的な健康度が削がれてしまうので考えないようにしましょう。
なお、よくサーバーが落ちてて閲覧と編集ができなくなるので、見れない時は再度お越しください。
靴のソールがどっちに削れているかで、身体に靴があっているのか、歩き方と姿勢。
腰痛や下肢の疲れ具合を予想しています。歩き方でなんちゃらのデューク更家さんなんか、見りゃわかるらしい。ちなみに靴にフェティッシュは生じさせていないので安心してください。両手で後ろ髪をかき上げる様は、裸を見てしまったような罪悪感と気恥ずかしさから目を逸らします。
単純に、好きと言えばいいのにwややこしい書き方してなぁっっw
手が隠れる=無防備な姿勢になる=特定の思考が触発される=キャー///
(ミロのビーナスに腕があったら、腕を想像する芸術としてなりたたなくって、人は腕や手にいろんな身体的・意味を込めている。手は人!!といっても過言じゃないし、単純に手や腕は攻撃と防御に使えるため、それが隠れるということは無防備になることを人間の無意識は知っている。普段は社会的規範から立ち上がらない、侵害性が立ち上ってきて、攻撃性に転化できないから自分の心にとどまる、萌え♪になるんでしょうね。切なさと同様な原理でしょう。
寂しいことを寂しいって言えたら寂しくなくなるんです)
最近人工知能の記事を読んでいると、小説『空の境界』がちらちらと連想されます。
かっこいい厨二病の奈須きのこが描くこの世界は、哲学的な問答と心理学的なワードがあちこち出てきたりして面白いです。ユング心理学がベースなのかなって思います。
特に人工知能と関連してああこれはって思ったのは、蒼崎橙子がアルバとアラヤに殺されてアルバの前に再登場したところ。殺した橙子が実は人形で、人形は橙子と寸分違わずに作られてて、自分と同じ人形を作れば自分が死んでも、この世界と私という成長し続ける存在は変わらないところが思い浮かぶ。
「これがあれば私は必要ないんじゃないかって」
社会にとって同じ性質の存在が活動していれば、私という存在がなくなっても困らない。双子は遺伝子が一緒だけど、生活を一緒にしていれば違う思考判断になるから、別の存在ということが言える。けど、生き別れていると差異を作る必要がないから同じと言えるだろう。
まだ電脳化されない世にとって、身体は固有性を保持している。
身体(脳)から作られる精神・心も固有であり続ける。そう思うと、目の前の人物の存在は非常にかけがえのない現象で、差別的な相対的価値というある種の規範が根底から揺らぐ。主人公の名前が両儀ってのもね!
精神よりも大事なのは身体です。身体がなければ精神活動が出来ないから、心理療法よりも森田療法のような身体を休ませる技術が好きです。精神疾患になるのも浮腫んで太るのも、過食も拒食も睡眠不足からといっても過言じゃないと思います。
なので、マッサージを受けるのもするのも好きです。接骨院に通い続けて1年くらいになるので、座りっぱなしの運転手やオフィスワーカー、自転車をする人がどこが痛くなりやすいのか知っています。腕のいい、博識な先生に毎回いじめられています。あんまりにもなので「いじわるだっ(ぐすん」とこぼしてしまいました。決して、犬な男子じゃないです。
ああ、僕は人が喜んでいる姿や笑顔が見たくって、生きているんだなと思います。
プレゼント魔じゃないけど、人に何かあげたくなる。これは母方祖母の性格的傾向なんだろうなって思ったり、さみしがり屋さんからきてるんだろうと思ったり。
外で働くよりも専業主夫の方が合ってるんじゃないかと、割と真剣に考えたりします。生まれてきた性別間違えたかな?まぁ、心理的両性具有アンドロジニー(僕の言語処理は男性で感じ方は女性的なみたいな)だし、いろんなこと連想するよね。
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