成長するとき

2016年9月4日 散文
時間が経ったら、掲載します。


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人は大きく成長しない。成長するときは思春期や病気から回復するときであって、おおくの人は、大きく飛躍しない。
いま病気になっているわけじゃない。身体も健康。精神は寝不足気味で稼働率は良くない。もっとも、いつも得意分野の中にいるわけじゃないから、効率化なんてものを考えていること自体無駄なこと。

一方、自己成長の飛躍を感じているのは、この歳にして心理的な年齢が14.15歳の思春期になれたからだろう。精神年齢はきっと振る舞いの指標を指しているんじゃないかと、心理的年齢と精神年齢を考えたときに思った。

男の成長は女の人と比べてはるかに遅い。
色んな物語や小説に登場する男性はおおよそ、何もかも女性に見透かされて、恥ずかしい思いをしながら行動を起こすのだろうと・・・なにを書いているんだろう。ただ、キーボードのタイピングが止まらない。

それくらいに男女比較をしたときに、目がくらむような気持になる。新海誠の「秒速5センチメートル」を読みながら思った。
夏目漱石の「三四郎」
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
武者小路実篤「友情」

「友情」は毛色が別にして、どれも若い男が夢と現実に格闘して勝手に大失恋するお話だと思う。その様はただの壁に命を燃やして踊りまくるようで、見ている読者にとっては面白いのかもしれない。けれど、主人公はその壁が桃源郷のように思えて、振り向いてもらいたくて踊る。壁に恋をする。それはそれは真剣に。
でも無理なことを勝手に悟って、持ち運びが簡単な花瓶を愛するようになるのだろうと。壁を叩き続けなければ、扉は開かないというのに。自分のおもちゃ箱(力関係と理解の範疇)に入るようなものが好きなのは、皆同じだろう。カテゴライズしなくてされない、あるがまま、そのままでよい。これらを求めて人々はわざわざ演劇を始めるのは面白い。

若きウェルテルの悩みから友情を読んで三四郎を読んだ。
「友情」は武者小路実篤が夏目漱石を尊敬して作られた話のようで、「三四郎」と話が似ている。僕は「友情」の方が好きだ。ラストの”神よ我をたすけたまえ”だっただろうか、アニメ・ホワイトアルバムⅡを連想させるようで好き。

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