人の幸せ

2016年8月28日 散文
人の幸せは人と繋がることで生まれる。
理解され理解し、ミスコミュニケーションをなるべく無くした共感力。その人が持つ固有の世界を大事にする、思いやり。愛とはおおよそ「安心」のことである。愛するとは安心を与えることだ。

愛をくださいとドラマや漫画で耳にする時は、「安心をください」と聞こえる。
人の、哺乳類の第一次欲求は安全への欲求。それを満たしてから次の欲求に移っていくと唱えたのはマズローではあるけれど、そうした安全がない状況でも精神的な聖域を作れることを示唆したのはフランクルだった。

特化型人工知能から汎用性人工知能、VRが話題になっている。
生活や生きかたを変えてきたテクノロジーを今後どのように使っていくのかという話で持ちきりだ。カーナビができてから、運転手の仕事は随分と楽になったと思う。普段の業務でスマホでGoogle MAPナビを使って知らない場所に回収をしたり最適なルートを提示してもらっている。Google MAPナビがあるから、若者の車離れが叫ばれている世相において、スマホのナビ・カーナビによって若者をベテランドライバーに仕上がる。
けど、細い道や抜け道には対応していないから、長く運転手をしている人は運転中の信号待ちでマップルなどの地図帳を開いて熱心に道を頭の中に取り込んでいる。

今のところ、ふわりとした身体知や直感のほうが人間のほうが優れていると言われているけれど、その均衡は破れるだろう。破れた後で、人間性主義の崩壊、VRへの没入によって身体が要らない状況になることが予想される。攻殻機動隊という有名な作品があるけれど、そうした世界になっていくのだろう。どちらかといえば、人間は遊ぶ動物だから「ソードアートオンライン」の世界で走り回っているのかもしれない。

ただ「ソードアートオンライン」で遊びとして成立するのは”死”がないからで、主人公キリト達が生き抜いた世界には、キャラクターの死によって現実世界の身体が死ぬ設定がある。虚構と現実性が薄れていく人間と社会で様々な社会問題が作中で登場する。まぁそれはおいておこう。
仮想空間が自分がいる空間だと認識し始めたとして、そこに新たな”死”を実装したら、どんな社会反応が起きるのだろう。ただ、人間・生物としての個別性のある精神存在が、仮想空間にあろうと現実なかろうと、つまるところ人間は死ぬ因果は逃れられないじゃないかと、達観したらこの僕の話は崩壊するのだけれども(にやり

けど、仮想空間に精神を置いても人は人を求める。
なぜかって皮膚感覚が人間にとって哺乳類、ううん原始的な生物にとっても存在すること、反応することの基盤になっているから。(まとめが弱い)

余談だけど人は遺伝子に乗っ取られている、遺伝子を運ぶ存在だと言われることがある。有名な脳科学者は生殖以外は余暇活動と言ってのけたらしい。ロクでもないと思うけど事実だと思う。平和な生活があれば。(脳科学者を男性だとラベルしたら思惑通り)
ここで差し込むけど性行為のSEXが嫌いな人って、いい人格者(家族友人恋人)に会ってないんだろうなって思う。皮膚の傷つきや冷たさを暖かさに変えるような人に。
アセクシャルな人とか無性欲の人は別にしてね。



-テクノロジーと援助専門家-

メスという飛び道具がない援助専門家は、一時苦痛を忘れさすことができても人を救えない。うつ病治療はTMS(磁力治療)の機械が代わって行い、援助専門家はエンジニアに取って代わるか鞍替えする。双極性障害の治療薬だってミトコンドリアと遺伝子解析ならびに脳バンクが作られて解決に向かう。緩やかな自殺の摂食障害だって、腸の解析だし。
メスや科学テクノロジーを持たない援助専門家は時代に対して無力だ。

けど、テクノロジーの移行期にはソーシャルワーカーは絶対に必要だし、黒子のような存在が表に立たされた事件もある。個人、地域、立法、援助、研究へつなげる存在はなくてはならない。ただ、現段階で有用性のある切り札は援助者の皮膚感覚なのだ。

コメント