美術品を見ながら、先に進む友達との距離は置いて行かれないにした。
美術館を後にしたとき友達には「存在を忘れていた」と話したのだけれど、それは本当だった。集中力があった前半は解釈に没頭していた。けど置いて行かれないように最低限の距離を意識していた。いくつかの目線もあったと思う。デジャブも。

2階に上がって行って、映画鑑賞しているところで追いついた。
20分ほどの映画を上映していた。どうしてこの作品知ってるんだろうと思いながら、ベンチに座って鑑賞していた。けど、いつもデジャブを証明できる手立てはない。ただ、デジャブを見せられている存在に過ぎないのだから。

美術館の会場内には、休憩用のベンチが置いてある。
そこには今日の展示物の紹介本が置いてあって、フロアを見終わった後に再度確認できる仕組みがなされていた。紹介本を眺めながら友達と自分の疲労度合いを考慮した。美術館は歩くことは知っていたけれど本当に歩いたと思う。ゆっくり歩いて、じっくり鑑賞して、また歩いての繰り返し。入館してから2時間はあっという間だったけれども。

友達が履いていた靴は履き慣れているものかどうか、尋ねたら深く考えないで良かったのかもしれない。本当に質問することが全般的に苦手なんだと思う。あとになって自分は背が丸まっていなかったかと気になった。

2階のフロアは面白い作りをしていた。円形に美術品と年代が展示されていて、中央のパネルには芸術家を紹介してあって、中央に立てば展示物と年代を一挙に見渡せるのが素晴らしかった...これは教えてもらったことだけれど。僕はそこに気づけなくて悔しいなと思った。多分、他にもいろんなことに気づけていないのだと思う。

美術館で特に油絵に解釈することに没頭しながら、ふと考えたことがある。
成長型マインドセットとフロー状態と芸術的思考とアイデンティティ拡散について。一貫してこれらの言葉が示すのは、「好きなものを好きと言えるか」という問いだった。学習型マインドセットを持っている人は、それこそ勝手に好きなことをして成長していくし楽しいし、フロー状態を生み出せる。それはもう芸術的な自由度があって、アイデンティティ拡散とは無縁だろうと。

坂本真綾の「プラリネ」という素敵な曲がある。
この曲は好きな人と一緒に好きな場所や好きなことを数えていけたらいいねという、暖かくポップなメロディで、最近好きになりました。
この曲のように、好きなことを考えていたら不安や嫌いなことについて頭を占領しないで済むし、人生は明るく楽しくなる。僕はこれまで小さな不幸が積み重なって、楽しいことや嬉しいことを感じにくい、ちょっとした失陥感情を持っているように思える。多分、きっと自分の感情を移し変えてくれる人が、自分にとっていなかった。結構、こういうと親友に「いたはず。気に留められなかっただけ」と無情な感想をもらう。確かにそうなのだろう。
だからこそ、好きなことを好きなだけやれる人は、それだけで僕にとって圧倒的な存在感があるし羨ましい。好きでやっているから成功しやすいし成功体験も積み重なっていく。ゆえに僕もそうなりたいって。ずっと、労働と学習が乖離した世界にいて引き裂かれそうで、でも耐え続ける。意味がないのに意味があると信じて。


ただ、読書会に参加させてもらえるようになって、一つ自分の存在の有用性に気がついたと思う。ブルーワーカーはブルーの世界で通用する生活の仕方をしていて、これからシステムを作っていくだろう友達たちは生きている世界がまるで違う。
同じ言語を使いながら、男女の言語的な奥行きと意味的な幅の使い方が違うように、労働者とシステム構築者はそれはそれは理解し合いにくい。かつてジャポニカ学習帳に乗っていた、コウモリの童話は示唆的だし、社会人経験がソーシャルワーカーになるにあたって必要だということも。現場と研究(構築)の橋渡しをする存在がいかに必要であるか。

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そうだね、僕が幼くして手術を3回少し経って4回受けたことに意味があるね。
言葉の魔術師とよばれた、ミルトン・エリクソンのような重度な病気ではないけれど、大人たちがどのような心理的な機微を持って行動しているのかわかってしまった。その時に2歳3歳にして15歳くらいの思考が立ち上がったんだった。

食事の時間に目の前のカーテンが閉められて
「(食べられないことは知っているのにそんな無駄なことをして何になるんだ!!その配慮した顔を見て僕が看護婦さんの気持ちを配慮しなきゃならないじゃないか!!!)」

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いろんなことを美術館で考えていました。本当に楽しかったです。(^¥^@

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