自分は孤独だ
そうおもって毎日過ごしてはいないけれど、日々の瞬間で意思とは関係なく、連想的に孤独だと思う瞬間が、これまでにあった。運転手の仕事は孤独で考え事をするのには暇が過ぎる。孤独について考える機会があって、きょうは孤独についてずっと考えていた。
きょうだいが多い家に産まれた。幼い頃は帰って来れば誰かしらいる。そうしたなかで段々ときょうだいが成長して行って、家の合鍵を持つようになった。小学校高学年の頃からそうした生活が始まったように思い出される。
(追記:鍵を忘れることもあって、何時間も母親を待つことがあった。母親が悪かった場合もあって、団地のガスメーターに合鍵を忍ばせていれば、すんなり入れることはあったけれど。それでも、3、4時間待つことはザラにあった。冷たいコンクリートのうえで、膝を抱えて教科書を読む気も、隣の公園でブランコに乗るのも、そうした行動をとらないで、ひたすら母親の帰りを待っていた。あの時、ぼくはやっぱり寂しかったんだと思う)
うえの3人の兄は高校生でどこかに出かけていたし、うるさい中学生の姉も部活で忙しかったのか、帰ってくる時間には合わなくなって行った。
友達はちらほらいたけれど、学校が終われば早足で信号待ちしないような、最適な歩幅で家路に着いた。そして団地の4階までの階段を最適な飛ばし方で駆け上がって、鍵を開ける。鍵を開ける瞬間、ぼくは安堵する。そして玄関を開けてなかに入って、とてもがっかりする。「 誰もいない 」孤独という言葉を知らないころ、孤独を感じていた。
毎日学校は緊張の連続で、クラスメイトからの嫌がらせも先生や友達との関わりに不安を持っていたから、すぐに家に帰りたかった。帰って来ればきょうだいの誰かしらに会うし、母親にも会えるだろうと。けれど、「 誰もいない 」誰もいないからゲーム機に電源を入れて遊ぶ。けれど、このゲームは複数で対戦するゲームで一人プレイは寂しかった。
ぼくは仲間意識や帰属意識を幼稚園からもてなかった。人と繋がれないことから寂しくなって孤独を生んで、孤独な状態が当たり前のようになっていった。皮膚のうえを守ってくれるようなバリアがなくて、不安になるけれど、仕方がないことと決め込んで。
そしてぼくは孤独な人が見分けれられるようになった。それでまた悲しくなる。
孤独な人は「傷つきを訴えることができなかった繊細で優しい人」
他人も自分も傷つけたくなくて、でも訴えることができなくて辛くなる。他人に怒れる時は正当に相手だけが悪い時。理解されたくて相手を説得しようとするけど、うまくいかなくて自己理解を深めるしかない、もしくは社会を滅ぼすかのように説得することに命を燃やす。
自己理解に徹することも他者説得をするのも上手くいかない。
基本的に孤独な人は傷つきを癒そうとしたり、真っ当に傷を処理をして忘却するように向かない。傷つきを無視したり、傷のうえに防具や傷を武器にしたりする。もう、悲しくって見ていられない。傷ついた己を自己成長という規範意識で否定し続ける。そんなの自分に優しくない。
ロゴテラピー(実存主義)も弁証法も、人には優しくない。元気な人にはいいのかもしれないけれど。孤独には論理じゃない、素朴な思いやりという感情が必要なんだ。
そうおもって毎日過ごしてはいないけれど、日々の瞬間で意思とは関係なく、連想的に孤独だと思う瞬間が、これまでにあった。運転手の仕事は孤独で考え事をするのには暇が過ぎる。孤独について考える機会があって、きょうは孤独についてずっと考えていた。
きょうだいが多い家に産まれた。幼い頃は帰って来れば誰かしらいる。そうしたなかで段々ときょうだいが成長して行って、家の合鍵を持つようになった。小学校高学年の頃からそうした生活が始まったように思い出される。
(追記:鍵を忘れることもあって、何時間も母親を待つことがあった。母親が悪かった場合もあって、団地のガスメーターに合鍵を忍ばせていれば、すんなり入れることはあったけれど。それでも、3、4時間待つことはザラにあった。冷たいコンクリートのうえで、膝を抱えて教科書を読む気も、隣の公園でブランコに乗るのも、そうした行動をとらないで、ひたすら母親の帰りを待っていた。あの時、ぼくはやっぱり寂しかったんだと思う)
うえの3人の兄は高校生でどこかに出かけていたし、うるさい中学生の姉も部活で忙しかったのか、帰ってくる時間には合わなくなって行った。
友達はちらほらいたけれど、学校が終われば早足で信号待ちしないような、最適な歩幅で家路に着いた。そして団地の4階までの階段を最適な飛ばし方で駆け上がって、鍵を開ける。鍵を開ける瞬間、ぼくは安堵する。そして玄関を開けてなかに入って、とてもがっかりする。「 誰もいない 」孤独という言葉を知らないころ、孤独を感じていた。
毎日学校は緊張の連続で、クラスメイトからの嫌がらせも先生や友達との関わりに不安を持っていたから、すぐに家に帰りたかった。帰って来ればきょうだいの誰かしらに会うし、母親にも会えるだろうと。けれど、「 誰もいない 」誰もいないからゲーム機に電源を入れて遊ぶ。けれど、このゲームは複数で対戦するゲームで一人プレイは寂しかった。
ぼくは仲間意識や帰属意識を幼稚園からもてなかった。人と繋がれないことから寂しくなって孤独を生んで、孤独な状態が当たり前のようになっていった。皮膚のうえを守ってくれるようなバリアがなくて、不安になるけれど、仕方がないことと決め込んで。
そしてぼくは孤独な人が見分けれられるようになった。それでまた悲しくなる。
孤独な人は「傷つきを訴えることができなかった繊細で優しい人」
他人も自分も傷つけたくなくて、でも訴えることができなくて辛くなる。他人に怒れる時は正当に相手だけが悪い時。理解されたくて相手を説得しようとするけど、うまくいかなくて自己理解を深めるしかない、もしくは社会を滅ぼすかのように説得することに命を燃やす。
自己理解に徹することも他者説得をするのも上手くいかない。
基本的に孤独な人は傷つきを癒そうとしたり、真っ当に傷を処理をして忘却するように向かない。傷つきを無視したり、傷のうえに防具や傷を武器にしたりする。もう、悲しくって見ていられない。傷ついた己を自己成長という規範意識で否定し続ける。そんなの自分に優しくない。
ロゴテラピー(実存主義)も弁証法も、人には優しくない。元気な人にはいいのかもしれないけれど。孤独には論理じゃない、素朴な思いやりという感情が必要なんだ。
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