https://www.amazon.co.jp/エリック・ホッファー自伝―構想された真実-エリック-ホッファー/dp/4878934735/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1471681121&sr=1-1
高い志をもった勤労学生が勉強や学習に一切の犠牲を払ってきたけど、それらを棄ててしまうのは、労働と学習が乖離してアイデンティティ拡散に陥りやすいから。

それに勤労学生はどんなに頑張っても、今の生活を支えている労働を脱ぎ去って、犠牲を払って学習したことを活かす場所で活躍を目標とする。けどステージに立つことは難しいと理解している。

なぜなら物理的に時間が足らない。
労働時間と学習時間が重なればいいのにと懇願しても叶わない現実。隣の畑は手間隙かけられて収穫しているのに、自分の畑に手間かけたいのにかけられない。等しく人が同じ能力があるとすれば私に足らないのは時間だけだとうわごとをいう。

嘆きは癒しを与えない。
そして意味がないのに意味があると言い続けなければ死んでしまうから言い続ける。
この労働に意味はあったと。

けど、労働と学習のことに関してエリックホッファーを想起せずにはいられない。
去年の今頃、西川口にある自動車修理工場で自動車解体業に従事して過労になって倒れて退職した。こんなどん底があるのかと思った。ヘッセの車輪の下を何度、自然に連想されたかわからない。そんな頃に遠くに住む30上の親友から「エリックホッファー自伝」をもらった。フランクルの「生きがい喪失の悩み」を読んだ時期でもある。

ホッファーの人生は労働と学習であったといえる。どこか社会と馴染めない不適合者/ミスフィットを自覚していた。社会の適合者になれないこの前提から社会に愛や憎しみを当てつけることを自分認識に求めた。同時にその当時の社会の雰囲気を批判したけど、ここでは触れない。

「驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。自分自身にすることを他人に対して行う。われわれは自分自身を憎むとき、他人も憎む。自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである」

「世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある」

ホッファーは自己認識を深くしようとした人だった。思いやりによって人は強くなる

「思いやりを、それが自己認識を深くする」
「すぐに行動したがる性向は、精神の不均衡を示す兆候である」
「自立した個人は慢性的に不安定な存在である」
「われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する」
「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」

ホッファーの警句はひどく自分を落ち込ませる。「君は自己洞察や自己認識を人よりもしていて優れていると思っているようだけれど、そこに自己への思いやりはあるのかね」と、フランクルのように、ホッファーから問われている気がしてならない。
落ち込む必要性はないことは理解しているけれど、自分はなんでも落ち込まないと元気が出ない精神構造を作ってしまったらしい。"満たされたら、更に邁進できる"というのに、まだ"満たされたら成仏してしまう"スタンスをとりたがっているようだ。

ずっと15歳から働き続けて今年で28になる。28なら会社で後輩ができて先輩としての自覚が芽生えて、下っ端という意識はなくなる。けど、ずっと下っ端で働いている自分にとって、面白くない。出世するのは仕事ができるからじゃない。利潤や人事に働きかけられる人間が出世する。自分はそうした枠から最初からいない。自己実現のために会社を渡り歩く者。多少の帰属意識は持てたとしても、強くならない。ここは自分が居るべき場所ではない意識と、それでも向かい入れてくれた感謝ばかりが募る。

居場所がない、あるけど居心地が悪いと感じる人間の気持ちは痛いほどわかります。

宙ぶらりんで幽霊のようで心もとない。肯定的な心の栄養が得難いから生き方が苛烈になりがち。


いつもまとめが弱いけど、やはりミスフィット、帰属意識の課題(としている自己)を貫けるのは、思いやり。

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